かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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エウメネス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
エウメネス 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 5 / 政治力 7 / 知力 10

エウメネスはいかなる事情によってか祖国カルディアを追われてマケドニアに身を寄せ、ピリッポス2世アレクサンドロス3世に書記官として仕えた。その後、アレクサンドロス3世の東征途上、ペルディッカスの後任として騎兵の指揮官に就任。これ以前にも書記官としてだけではなく、軍事面でもかなりの功績を挙げていた。
アレクサンドロス3世の死後開催されたバビロン会議にて、エウメネスはカッパドキアとパフラゴニア地方の太守に指名されるが、この任地にはマケドニアの支配が及んでいなかった為、軍事力をあてにしていたアンティゴノスは出兵を断り、レオンナトスはギリシャで発生していた反マケドニア闘争の鎮圧(ラミア戦争)に向かった為、当時大王の遺児アレクサンドロス4世を擁していた摂政ペルディッカスの支援を受けてこれを制圧。

この頃マケドニア内部ではペルディッカスと大王の遠征中マケドニア本国を守っていたアンティパトロスとが対立を深めており、ペルディッカス派と見られていたエウメネスは、アンティパトロスと共に行動していたクラテロスと対戦することとなった。両者は紀元前321年に小アジア北西部・ヘレスポントスで戦闘を行い、敵のクラテロス・ネオプトレモスの両将を戦死させる。しかしクラテロスはマケドニア人の間で絶大な人気があった為に、殺したエウメネスは栄誉よりも反感を買うこととなる。又、その2日前にはプトレマイオスを攻めてエジプトに遠征中だったペルディッカスが配下の将軍達(ペイトン、アンティゲネス、セレウコス1世)の裏切りによって暗殺されており、後ろ盾を失ったエウメネスは同年のトリパラディソスの軍会で庇う者なく討伐を宣告された。
エウメネスは帝国全軍総司令官として追討の任に就いたアンティゴノスと戦うも、残った他のペルディッカス派の諸将との連携に失敗して追い詰められ、カッパドキアのノラに包囲される。しかし、帝国摂政位に就いていたアンティパトロスが病没し、その地位の後継者に指名された部下のポリュペルコンと我こそが父の後継者たらんとしていたアンティパトロスの子カッサンドロスが対立すると、状況が一転。カッサンドロスがアンティゴノスと手を結んだため、これに対抗する必要があったポリュペルコンがエウメネスに接近したのである。エウメネスはポリュペルコンの支援を受けて、ノラの包囲を抜け出して勢力を盛り返し、メソポタミア地方で大王の親衛隊銀楯隊を含む軍団を掌握した。この軍を率いてエウメネスは再びアンティゴノスと現在のイラン領・パラエタケネで矛を交えたが、引き分けに終わる。

紀元前316年、現在のイラン領のガビエネの戦いでは、味方だったペルシス太守ペウケスタスの怠慢が原因となり敗北。この時エウメネスは戦闘に敗れたものの、軍の損害そのものは未だ致命的ではなかった為、再戦を考えていた(アンティゴノス側の戦死者5000人以上に対し、エウメネス側の戦死者は300人程)。しかし、後方に控えていた輜重隊や兵の家族がアンティゴノスに奪われてしまう。以前からエウメネスに反感を抱いていた銀楯隊の指揮官アンティゲネス等は、エウメネスを引き渡せば家族や荷物を返還するというアンティゴノスの誘いを受けてエウメネスを捕らえ、降伏。身柄を受け取ったアンティゴノスは当初、優秀でありかつ親友でもあったエウメネスを自らの幕下に加えようとしたが、これまで散々エウメネスに辛酸を舐めさせられ、また彼が味方になると自分たちの影が薄くなることを恐れたアンティゴノスの部下の多くがそれに反対し、密かに彼を殺害。アンティゴノスは友のために盛大な葬儀を行い、遺骨はエウメネスの妻子の元へ届けられた。
エウメネスをアンティゴノスに引き渡した者達のその後は恵まれたものではなかった。銀楯隊は僻地へ左遷されてその地で生涯を終え、アンティゲネスは惨たらしいやり方で殺され、ペウケスタスは所領を奪われた。

エウメネスは他のディアドコイのように王家との血縁関係を持っていたわけではなく、貴族の生まれでもなく、ましてやマケドニア人ですらなかった為、勢力基盤が脆弱であった。それゆえ自身の地位を保持する為に王家との結びつきを何よりも必要としていた。女性でありながらアレクサンドロス3世死後の権力争いに身を投じたアレクサンドロス3世の母オリュンピアスは同じ外国人故か彼を信頼し(彼女はエピロス王家からマケドニアに嫁いでいた)、彼を味方に引き込もうとしたり、助言を求めたりしていた。
又、文官出身であるとの理由で彼を軽んじていた将軍も少なからずおり、ヘレスポントスの戦いの直前にエウメネスの援軍として派遣された将軍のアルケタスとネオプトレモスはエウメネスに従うのを嫌がって彼の軍に合流しなかったし、ネオプトレモスは自分達将軍は王に剣で仕えてきたのに、エウメネスはペンで仕えていたと言ってかねてよりあからさまにエウメネスを馬鹿にしていた。そこでエウメネスは配下の指揮官達から意図的に多額の金を借り入れることで自分を裏切れないようにしたり、自分に従おうとしない指揮官を納得させる為、軍議の場にアレクサンドロス大王の椅子を置き、いわば御前会議の形式を採った。しかしそれでも指揮系統を完全に掌握することは出来なかったのである。

ディアドコイ(アレクサンドロス3世の後継者達。すなわちプトレマイオス1世、セレウコス1世、アンティゴノス、アンティパトロス、リュシマコス、エウメネス、ペルディッカス)はエウメネスの力量を高く評価し、彼の生前は誰も王を称することも王家を蔑ろにすることもなかったが、アレクサンドロス3世の子供達のただ一人の擁護者「エウメネス」を亡き者にすると、自分達の真の目的を鮮明にした。ちなみに最初に王を称したのはアンティゴノス・デメトリオス父子で、エウメネスの死の10年後の紀元前306年である。



テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学


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