かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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トラヤヌス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
トラヤヌス 能力データ
魅力 9 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 8

トラヤヌスはローマ帝国史上最大の版図を現出。イタリア本土出身者でない初の属州生まれの皇帝で、同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝でもあり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。

トラヤヌスは青年期を迎えると軍団への参加を通じて政治的キャリアを築き始め、各地を転戦する日々を送る。ライン川防衛の指揮官であった上ゲルマニア属州総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌスがドミティアヌスに対して反旗を翻すと、その鎮圧で功績をあげる。
96年、ドミティアヌス暗殺によってフラウィウス朝が断絶すると、元老院の支持をまとめた古参貴族の元老院議員ネルウァが皇帝に即位。しかし、子息を持たず高齢であったネルウァが新たな王朝を形成できる可能性は低く、97年に後継者としてトラヤヌスを指名。軍の支持を集めるトラヤヌスの指名を親衛隊に強要され、跳ね除けることができなかったためとされる。トラヤヌスはドミティアヌス時代に不当な理由で投獄されていた囚人を解放し、また同じくドミティアヌスが没収していた私有財産を元の所有者に返還。これらの政策はネルウァ時代から既に行われていたが、トラヤヌスもドミティアヌスの治世を否定する路線を継承。ドミティアヌスと敵対した元老院からも絶賛され、「オプティムス」(至高の)という名誉称号を与えられる。

トラヤヌスの名声は二度にわたる歴史的な戦勝によって記憶されているが、その片方がダキア地方への遠征と併合である。以前から土着住民の国家であるダキア王国の属国化が試みられていたが、ローマ側はドミティアヌス時代にダキア王デケバルスの軍勢に大敗を喫し、最終的に賠償金を支払って撤退するという屈辱的な和平を結ばされた経験があった。それ以来、勢いを得たダキア王国は勢力を拡大し続け、逆にローマ側の領土を侵略するまでに至っていた。トラヤヌスはダキア王国へ親征し、決着を付けることを決意。
101年、一度目の遠征で3~5月にかけてダキア軍との緒戦に勝利して、トラヤヌスと遠征軍はダキア領内に橋頭堡を形成。続いてドナウ川を渡河するとタパエに陣を敷いていたダキア軍と大規模な会戦が発生(第二次タパエの戦い )。戦いは途中でダキア軍が撤収したことで遠征軍の勝利となり、翌年の戦いを経てダキア王デケバルスはトラヤヌスに降伏。勝利によってローマに凱旋したトラヤヌスは、元老院から「ダキクス・マキシムス」(最大のダキア征服者)の称号を与えられ、トラヤヌスのトロフィーが建設された。
しかし解放されたデケバルスは反乱軍を組織して立ち上がり、ローマ領へ侵攻。トラヤヌスは南ダキアに再度親政し、第二次ダキア戦争は激しい攻防戦の末にダキア王国の都サルミゼゲトゥサ・レギアが陥落して終結。デケバルスは逃亡したものの追い詰められた末に自害に及び、遺体から切り落とされた首が元老院議場の前に晒された。戦後、「ダキア属州」となった旧ダキア王国領には大規模な植民行為が行われ、併せてドナウ川防衛の要である鉄門付近の強化も実施、トラヤヌス橋は当時最高水準の建築技術を駆使して建設されている。また鉄門を中心とした運河の整備も行われた。ダキアの金鉱開発はローマ帝国にとっての新しい財源として国を富ませ、ローマ市では勝利を祝ってトロフィーに続いて記念柱(トラヤヌスの記念柱)が建設された。
107年からの7年間、トラヤヌスは新たに公共建造物、記念碑などを建設したが、とりわけローマ市内の記念柱とトラヤヌスのフォルム、そしてトラヤヌスの市場の他、各地に凱旋門を設置。トラヤヌス街道や新トラヤヌス街道などのインフラ整備にも努めた。経済政策ではデナリウス銀貨の切り下げを行い、銀の含有量を93.5%から89%に下げ、大量のデナリウス銀貨を鋳造。娯楽面では3ヶ月間にわたって大規模な剣闘技大会をコロッセウムで開催して500万人の観客を動員、1万1000名の奴隷が殺害されたと伝えられる。

晩年となる113年、トラヤヌスは新たな戦争に乗り出す。東の大国パルティアのオスロエス1世が両国の緩衝地帯であるアルメニア王国に傀儡君主パルタマシリスを立てると、トラヤヌスはこれを自身の即位15周年記念祭への侮辱行為とする。113年中にハドリアヌスによってアンティオキアで編成された遠征軍3個軍団は、114年の春を待って進軍を開始。道中、経由した駐屯地の軍団等と合流し計17個軍団、総兵力約8万の軍容で大きな問題も無くアルメニア領内に進入、トラヤヌスは西部の都市エレゲイアにてパルタマシリスの退位とともに「アルメニア属州」の樹立を宣言。パルタマシリスがローマへの護送中に暗殺される一方、トラヤヌスはアルメニア全土の制圧を指示。114年末までに各地の要衝が押さえられ、ローマ帝国の支配下に入った。並行して黒海近辺の諸勢力との交渉や調整も行われ、既に元老院より贈られていた「パルティクス」(パルティアの征服者)の称号もこの頃から名乗るようになる。
遂にペルシア湾に到達したトラヤヌスは、湾岸周辺を治めるカラケネ王国のカラクス・スパシヌ王と手を結ぶ。カラクス・スパシヌはローマの元老院へ送った書状の中で「彼がインドに向かったアレクサンドロス3世よりも年老いていることだけは残念に思う」と評している。しかしながらトラヤヌスの遠征事業はペルシア湾周辺で切り上げられ、本国へと帰還を開始。

しかし、直後の117年から征服地で反乱が相次ぐ。部分的には鎮圧に成功したが反乱は収まらず、メソポタミアの維持が困難となったローマ軍は大きく後退し、ドゥラ・エウロポスなどの115年に占領した地域の一部まで失う。トラヤヌスはアンティオキアまで退き、再度メソポタミアへ攻勢に出る計画を策定し始めたが、健康状態が悪化したためそれも実現不可能となった。病状が悪化し続けたトラヤヌスはイタリア本土へ戻ろうと海軍を呼び寄せたが、その間にも痩せ衰えていった。8月9日、キリキア属州のセリヌスに到着した直後に病死。本国で後継者や遺言を残す前に死んだことから後継者争いが危惧されたが、トラヤヌスはハドリアヌスを後継者に指名したと皇后ポンペイアが証言した。ハドリアヌスが皇帝に即位した。



テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学


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