かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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アレクサンドル・ネフスキー


Category: キルギス・ロシア
アレクサンドル・ネフスキー 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 7

アレクサンドル・ネフスキーは幼少の頃から智勇兼備の名将として父から高く評価され、1236年にノヴゴロド公の位を継ぐように命じられた。当時、ノヴゴロド公国ではモンゴル帝国のバトゥ率いるヨーロッパ遠征軍の侵攻を受けなかったが、代わりにドイツ騎士団とスウェーデンからその領土を狙われていた(北方十字軍)。しかも、1240年夏にはビルゲル率いるスウェーデン軍がノヴゴロドに侵攻して来た。しかしアレクサンドル・ネフスキーはこれに対してわずかな兵力でネヴァ河畔の戦いで大勝し、逆にスウェーデン軍を壊滅させると共に敵将ビルゲルを討ち取る。これによりその勇名はロシア全土に轟き、この戦いに大勝を収めたことにより「ネヴァ河の勝利者」という意味の「ネフスキー」と呼ばれることになった。

更に1242年4月には侵攻してきたドイツ騎士団に「氷上の決戦」チュド湖上の戦いで勝利。父の死後、アレクサンドル・ネフスキーはバトゥが建国したジュチ・ウルスとは争う姿勢を見せず、むしろ自ら同国の首都サライを訪問して臣従することを約束。ジュチ・ウルスに対して反抗的な態度をとっていた弟アンドレイをモンゴル軍を利用して追放した後、ウラジーミル大公の位を継ぐことを許された。その後は大公としての権力と権威を高めるため、国内の反モンゴル運動を弾圧する一方で宗教を保護してある程度の自由を許した。1260年にはリトアニア大公のミンダウカスと同盟して宿敵ドイツ騎士団を再び破る。

1263年、4回目のサライ訪問の途上、ゴロジェッツで病に倒れて43歳で死去。後を弟のヤロスラフ3世が継いだ。アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニールはモスクワ公となり、後にノヴゴロド公国を征服・併呑しロシア史の中心になったのは運命的である。
アレクサンドル・ネフスキーが対外戦争に勝ち続けたのは、日本の戦国時代の島津氏やモンゴル軍のように敵を誘き寄せたところを伏兵でもって殲滅するという戦術を得意としたからである。また、ジュチ・ウルスに対して臣従を誓うことでその侵攻と国家の荒廃を防ぎ(これには、バトゥがアレクサンドル・ネフスキーの勇名を恐れて、侵攻しなかったとも言われる)、逆に自身が大公になるためにその軍事力を利用するなど、政治家としての駆け引きも超一流であった。しかし、一部の史料では国民の反モンゴル運動に対して厳しい弾圧を行なったことから、暴君とも称されている。
死後早くから聖人視されることが始まり、1547年にはロシア正教会から列聖されて正教会の聖人となった。聖人としての称号はネワの聖大侯アレクサンドル。彼にちなむ教会・修道院としては、ピョートル1世によって建立されたサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院が有名である。修道院のために選ばれた場所はネヴァ川の戦いの古戦場であった。



テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学


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