かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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楠木正成


Category: 日本
楠木正成 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 4 / 知力 8

楠木正成は河内国石川郡赤坂村(現千早赤阪村)の出生だが、前半生はほとんど不明で判明している生涯は元弘元年の挙兵~建武3年の湊川での自刃までの僅か6年ほどに過ぎない。
楠木正成は鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する鎌倉幕府から「悪党」とよばれた豪族で、後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城にて挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦。

元弘3年・正慶2年、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅び(元弘の乱)、後醍醐天皇が京へ凱旋する際、兵庫まで出迎えて同道警護についた。
後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政においては正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる(『太平記』)。建武元年冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したと見られることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。

建武2年の中先代の乱を討伐に向かった尊氏だったが、そのまま新政に離反すると、尊氏追討の命を受けた義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破り、足利軍は京へ迫ることとなる。だが、楠木正成は北畠顕家らと連絡し、足利方を京より駆逐する。
延元元年 ・ 建武3年、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言する。だがこれは容認されず、次善の策として進言した、京都からの一時撤退も却下されてしまう。絶望的な状況下、義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川(兵庫県神戸市)で足利直義の軍と戦うが敗れ、弟の楠木正季と刺し違えて自害したとされる。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。

明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年には正一位を追贈された。息子である楠木正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、楠木正時、楠木正儀らも正成と同じく南朝方について戦った。
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でさえも同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためであろう。
明治になって南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られる。その動きはやがてのちの湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなった。



テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学


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