かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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アウグストゥス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
アウグストゥス 能力データ
魅力 9 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 8 / 知力 9

アウグストゥス(オクタウィアヌス)は紀元前44年、養父カエサルが暗殺された為に急遽ローマへ帰還。その途中のリピアエでカエサルが自分を後継者に指名していた事を知る。これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったオクタウィアヌスは、一躍有名になった。だが、オクタウィアヌスがローマに戻った時点でこの年カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれており、カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により国外に退去、ギリシアやガリア・キサルピナ属州を支配下に抑えていた。
次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせる。同年9月にはアントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し、協力関係となる。オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを弾劾、次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき窮地に陥った。
ただ、元老院は台頭するオクタウィアヌスを恐れてデキムス・ブルトゥスに近づいた為に、これに反発したオクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍。さしたる抵抗も無くローマに入城したオクタウィアヌスは、親戚であるクィントゥス・ペディウスとともに改めて執政官に選ばれる。紀元前43年、ボローニャにおいてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第二回三頭政治が成立。この同盟関係は密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ第一回三頭政治と異なり、公然としたものであった。

紀元前42年、元老院はカエサルの神格化を決定、「神君ユリウス」となる。これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強めた。一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになる。
今や同盟関係となったオクタウィアヌスはアントニウスとともに28個もの軍団を率いてマケドニア属州に進攻、親友であり側近のアグリッパと共に転戦した。オクタウィアヌスがアグリッパと並ぶ片腕であるガイウス・マエケナスを見出したのはこの時期で、軍事のアグリッパに対しマエケナスは内乱期の外交交渉に活躍。
戦後、再び三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キサルピナからエジプトへ移った。ここでカエサルの愛人であったプトレマイオス朝女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンと出会う。レピドゥスはアフリカへと赴任する。そしてイタリア本国に留まる事になったオクタウィアヌスだったが、迅速に解決すべき問題に迫られる。
一方でアントニウスはエジプト滞在中にクレオパトラと関係を深め、後に2人の間にはアレクサンデル・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・ピラデルプスが生まれる。オクタウィアヌスはアントニウスとの盟約を確固とするために姉である小オクタウィアと妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。後にこの2人の間には大アントニアと小アントニアが生まれる。こうして共和政ローマは東のアントニウス、西のオクタウィアヌスと2分され、カエサル暗殺時に18歳だった無名の青年はローマの半分を支配する人物となっていた。

アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移すが結果は惨敗、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。だが、クレオパトラは彼の軍隊を再建できるほどの財力を持っており、これを好機として妻オクタウィアを一方的に離縁。アントニウス配下のローマ軍がアルメニア王国を攻撃、国王アルタウァスデス2世を捕虜とし、アントニウスはアルメニア遠征の成功によりアレキサンドリアで凱旋式を行ってクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据えたほか、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けた。オクタウィアヌスはこれを政治的に利用して、民衆および元老院を扇動。アントニウスをローマ社会から孤立させることに成功する。
紀元前33年1月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出。元老院もアントニウスを見限り、紀元前32年末にクレオパトラのプトレマイオス朝に宣戦布告した。オクタウィアヌス軍はアグリッパの指揮の下、狭い海峡でアントニウス・クレオパトラ軍と激突。この戦いに当時世界最大の海軍を保有していたアントニウスとクレオパトラの軍に対し、オクタウィアヌス軍の実質的な指揮官であるアグリッパは、アクティウムの海戦でこれに勝利。アントニウスとクレオパトラはエジプトのアレクサンドリアへ逃れるも、その後を追撃されアントニウスは自害、直後にクレオパトラも自害したためにここにプトレマイオス朝は滅亡した。こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。

ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院のプリンケプス(元老院内での第一人者を表す称号。かつてはクィントゥス・ファビウス・マクシムスやスキピオ・アフリカヌスがそうであった)となり、帝政下では全てのローマ市民の中で第1の地位を占める「元首=皇帝」を指すようになった。
こうしてオクタウィアヌスは、カエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、アントニウスらとの権力闘争を勝ち抜いて、彼の権力を妨げる勢力を全て排除することに成功。時間はかかったものの、オクタウィアヌスは地中海世界を統一し、カエサルの後継者に相応しいことを実力で証明し、名実共に「インペラトル」となった。
そして、共和制復帰宣言からわずか3日後、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請。オクタウィアヌスは数度に渡り辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥスと名乗るようになる。初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後期帝政(ドミナートゥス)と区別して「元首政」と呼ばれている。

紀元前12年にはアグリッパ、紀元前8年にマエケナスと相次いで長らくの腹心が死去。
紀元2年、元老院より「国家の父」の称号が贈られて権威を確立し、権力が磐石になると後継者問題に取り組んだ。
紀元14年8月、アウグストゥスは急に体調不良になりナポリで肺炎が原因で76歳で死去。遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、神格化された後にカレンダーにAugustus=August、つまり8月と記された。そして暗殺されたユリウス・カエサルつまりJulius=Julyには7月が神格化されカレンダーに記されたことは有名な話である。カレンダーに記されている1月から8月までの名前は全て神として古代に崇められた人物の名である。それ程偉大な人物の死であった。



テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学


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