かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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アレクサンドル・スヴォーロフ


Category: キルギス・ロシア
アレクサンドル・スヴォーロフ 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 6 / 政治力 2 / 知力 6

アレクサンドル・スヴォーロフはロシア帝国の常勝不敗の軍人でルムニク・スヴォーロフ伯、イタリア大公。ロシア帝国歴代4人目にして最後の大元帥。

ロシア・スウェーデン戦争、七年戦争、クーネルスドルフの戦いに参加し、他にも数多の功績を立てて大佐に昇進。ポーランドへの干渉を強めるロシアに対してシュラフタを中心とするバール連盟が決起し、ロシアとポーランド王スタニスワフ2世に対する闘争を開始した。スヴォーロフは3個連隊(スモレンスク、スズダリ、ニジニ・ノヴゴロド)を率いてポーランド侵攻に従軍。僅か12日で500キロを踏破しワルシャワを制圧。そして自軍の4~5倍の連盟軍を撃破しクラクフを占領、連盟を降伏させ、少将に昇進した。
ポーランド侵攻と並行して、ロシアはオスマン帝国との間に露土戦争を行っていた(第一次露土戦争)。ポーランド制圧を終えたスヴォーロフは1773年、アストラハン歩兵連隊とコサック騎兵連隊の指揮を引き継ぎ、オスマン軍野営地を奇襲して勝利。その年にバルカン半島に侵攻し、コズルドジで自軍の5倍のオスマン軍を撃破した為、キュチュク・カイナルジ条約が締結され、ロシアはオスマン帝国から多数の利益を引き出した。
この頃、ヴォルガではコサックの首長エメリヤン・プガチョフによる反乱(プガチョフの乱)が勃発。露土戦争終結後まもなく、スヴォーロフはこの反乱軍を撃破して首謀者のプガチョフを捕縛、モスクワへ送る。やがてクリミア軍司令官、カフカス軍司令官に任ぜられ、1780年中将に昇進。そしてカザン軍司令官に異動し大将に昇進した。

1787年、ロシアのオスマン帝国への領土割譲要求をきっかけに再び露土戦争が勃発(第二次露土戦争)。スヴォーロフは3万の軍を率いてオスマン軍がキンブルン要塞へ攻撃を仕掛けてきたのを撃退。この攻防戦の最中に尻と腕を負傷している。傷が癒えたスヴォーロフはオチャコフ要塞を包囲し、6ヵ月間にわたる攻防戦の末に陥落させた。また、この最中にもスヴォーロフは首を負傷。1789年スヴォーロフはフォクシャニでオスマン軍を撃破し、エカチェリーナ2世から聖アンドレイ勲章を授与された。1789年ロシア軍は神聖ローマ帝国軍と連合し、ルムニク・サラトでオスマン軍を撃破した。この際、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世も戦場にいたが、指揮はスヴォーロフが執っている。エカチェリーナ2世は勝利を祝福して、スヴォーロフにルムニク伯の爵位を授け、さらに自身の名を爵位に添えることを許した。また、ヨーゼフ2世も神聖ローマ帝国における伯爵位を授けた。1790年、スヴォーロフはオスマン帝国の重要拠点であるイスマイル要塞を攻撃し陥落せしめる。この際、スヴォーロフはエカチェリーナ2世への報告の中で、陥落はクトゥーゾフの功績であると述べた為、クトゥーゾフは脚光を浴びるようになった。
一方でエカチェリーナの寵臣である総司令官ポチョムキンとの反目が表面化。戦略をめぐって幾度も対立し、このような軋轢から左遷や異動の憂き目をみるが、ポチョムキンの死とともにウクライナ軍司令官に任じられ、再び最前線で軍の指揮を取ることとなった。

1794年、ポーランドの軍人タデウシュ・コシチュシュコがロシアの支配に対して蜂起。急遽派遣されたスヴォーロフは、劣勢から軍を建て直し攻勢に転じる。ロシア軍は勝利を続け、マチェヨヴィツェの戦いでポーランド軍に大打撃を与え、蜂起の首謀者コシチュシュコを捕縛。そしてワルシャワを陥落させる。ポーランド軍はプラガ地区で最後の抵抗を行うが、市街戦で全滅。ワルシャワ陥落によって蜂起は終結し、この功によってスヴォーロフは元帥に昇進したのである。
フランス革命戦争が進行する中で諸国は対フランスで結束、第二次対仏大同盟が結成された。パーヴェル1世はスヴォーロフを呼び戻し、ロシア軍最高司令官に任命。カッサーノ・ダッダの戦いで連合軍はフランス軍を撃破し、ミラノを制圧。スヴォーロフはトリノを制圧した。続いてトレッビアの戦いで勝利してアレッサンドリア陥落、マントヴァ陥落。後顧の憂いの消えたスヴォーロフはノーヴィの戦いで、司令官ジュベールを戦死させて勝利。これによって、ジェノヴァを除く北部イタリアは全て連合軍の手に落ちた。スヴォーロフはサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世から、サヴォイア大公の爵位を授けられた。

この頃、スイスではマッセナ率いるフランス軍とカール大公率いる連合軍が交戦しており、第一次チューリッヒの戦いから、膠着状態が続いていた。これに対し、スヴォーロフは20,000名の軍を率いてスイスへ向かいフランス軍を後退させる。この後のスヴォーロフの大胆なアルプス越えはハンニバル以来のことと賞賛され、ロシア大元帥の地位が授与され、更に凱旋行進を執り行うことを許された。1800年スヴォーロフはサンクトペテルブルクに帰国するが、パーヴェル1世は突如としてスヴォーロフから全ての地位と名誉を取り上げ、いわれのない罪を着せて軍から追放した。

そして1800年、スヴォーロフはサンクトペテルブルクで死去。
後にアレクサンドル1世がスヴォーロフの名誉を回復し、軍神マルスを模したスヴォーロフの彫像を建造してサンクトペテルブルクのマルス広場に置いた。
スヴォーロフの息子アルカディーは、ロシア帝国の将軍としてナポレオン戦争やオスマン帝国との戦いで活躍したが、皮肉なことに父が名声を高めたルムニク川で溺れて亡くなった。孫のアレクサンドル・アルカディエビチもまた、ロシア帝国の将軍として活躍した。



テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学


Comments

歴史IF 
もし、この人が20年遅く生まれていたら、ナポレオンとの決戦でどちらが勝ったでしょうね?
 
 
>李常傑さんへ

決戦地によるでしょうね。
ロシアでの戦いならアレクサンドル・スヴォーロフが勝つのではないかと思います。
ただ、両軍が別地で激突したならナポレオンかもしれません。。。
 

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