
ベリサリウス 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 7
東ローマ帝国の将軍フラウィウス・ベリサリウス。「大スキピオの再来」とも評され、常に寡兵をもって勝利を収めてきた彼は東ローマ帝国最高の名将と言っても過言ではない。ベリサリウスの軍事的才能と皇帝への忠誠心によって、ユスティニアヌス一世は地中海再統一を果たせた。
農民出身でユスティヌス1世時代に兵士となり、527年のユスティニアヌス一世登位の後に、帝国の軍団司令官の1人となって、対サーサーン朝ペルシア防衛戦に派遣される。緒戦においては敗北するも、少数の兵力でありながら強固な防御陣を構築し、サーサーン朝軍の侵入阻止に成功。この戦いによって皇帝の目にとまり、首都コンスタンティノポリスの司令官へと栄進する。532年に起こった「ニカの乱」においても暴徒を競技場へと追い込み鎮圧させる事に成功、ユスティニアヌス廃位の危機を阻止した。
530年、北アフリカのゲルマン人国家ヴァンダル王国において政変が起こり、東ローマ帝国に敵対的なゲリメルが王位に就くとユスティニアヌスは25歳の若きベリサリウスを総司令官に任命。海からカルタゴに上陸し寡兵ながらも勝利を続け、ゲリメルを捕縛することに成功するが、宮廷などで謀反の声が囁かれ始めた為に急ぎ帰国し、首都において凱旋式を行う栄誉にあずかった。
更にイタリア半島を支配していた東ゴート王国で反乱が起こると、ユスティニアヌスはこれを口実に侵攻を開始。ベリサリウスは、わずかな手勢と共に海路を渡りシチリアを制圧。しかし、東ローマ帝国でも旧ヴァンダル王国領で反乱が起こり、これの鎮圧を命じられた。反乱鎮圧後、再びイタリアに進軍。レッジョ、ナポリを制圧してローマも征服。この後、東ゴート軍は新しい王を立てて反撃を開始し、ローマを包囲する。ベリサリウスは1年半にわたるローマ包囲戦に勝利したが、フランク族の侵入なども受け、戦線は膠着状態に陥った。これにユスティニアヌスの嫉妬とサーサーン朝の侵攻が重なって、イタリアでの指揮権を剥奪される。この直後シリアに派遣され、サーサーン朝の大軍の補給線を遮断することで休戦に持ち込み、再び侵入阻止に成功したが、またしても皇帝の嫉妬を招き、全ての財産は没収され幽閉された。
この間に新たに王位についたトティラの下で東ゴート王国の勢力が増し、イタリアにおける東ローマ軍は再び苦況に陥る。544年、ユスティニアヌスは再びベリサリウスを指揮官に任命、トティラによるローマ攻撃を退けた。しかし、またもや解任され、隠棲生活に入る。559年、ブルガール人が帝国領内に侵入し、コンスタンティノポリスに接近した為、またもや司令官に任命され撃退に成功。この勝利後、皇帝に謁見した際に無視されたという逸話が残されている。この戦いの後、再び隠棲生活に入った。
晩年は、皇位を巡る陰謀に加担したとしてユスティニアヌスの命令で逮捕されるが、結局、無実と判明し釈放。憤死したともいわれており、晩年も不遇であった(乞食にまで落ちぶれたという逸話もある)。又、家庭においても占領地での政策にまで口を出す悪妻アントニアを抑えられず、自身が宮廷での立場悪化や窮地に陥る事態を招くなど、不幸であった。
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 7
東ローマ帝国の将軍フラウィウス・ベリサリウス。「大スキピオの再来」とも評され、常に寡兵をもって勝利を収めてきた彼は東ローマ帝国最高の名将と言っても過言ではない。ベリサリウスの軍事的才能と皇帝への忠誠心によって、ユスティニアヌス一世は地中海再統一を果たせた。
農民出身でユスティヌス1世時代に兵士となり、527年のユスティニアヌス一世登位の後に、帝国の軍団司令官の1人となって、対サーサーン朝ペルシア防衛戦に派遣される。緒戦においては敗北するも、少数の兵力でありながら強固な防御陣を構築し、サーサーン朝軍の侵入阻止に成功。この戦いによって皇帝の目にとまり、首都コンスタンティノポリスの司令官へと栄進する。532年に起こった「ニカの乱」においても暴徒を競技場へと追い込み鎮圧させる事に成功、ユスティニアヌス廃位の危機を阻止した。
530年、北アフリカのゲルマン人国家ヴァンダル王国において政変が起こり、東ローマ帝国に敵対的なゲリメルが王位に就くとユスティニアヌスは25歳の若きベリサリウスを総司令官に任命。海からカルタゴに上陸し寡兵ながらも勝利を続け、ゲリメルを捕縛することに成功するが、宮廷などで謀反の声が囁かれ始めた為に急ぎ帰国し、首都において凱旋式を行う栄誉にあずかった。
更にイタリア半島を支配していた東ゴート王国で反乱が起こると、ユスティニアヌスはこれを口実に侵攻を開始。ベリサリウスは、わずかな手勢と共に海路を渡りシチリアを制圧。しかし、東ローマ帝国でも旧ヴァンダル王国領で反乱が起こり、これの鎮圧を命じられた。反乱鎮圧後、再びイタリアに進軍。レッジョ、ナポリを制圧してローマも征服。この後、東ゴート軍は新しい王を立てて反撃を開始し、ローマを包囲する。ベリサリウスは1年半にわたるローマ包囲戦に勝利したが、フランク族の侵入なども受け、戦線は膠着状態に陥った。これにユスティニアヌスの嫉妬とサーサーン朝の侵攻が重なって、イタリアでの指揮権を剥奪される。この直後シリアに派遣され、サーサーン朝の大軍の補給線を遮断することで休戦に持ち込み、再び侵入阻止に成功したが、またしても皇帝の嫉妬を招き、全ての財産は没収され幽閉された。
この間に新たに王位についたトティラの下で東ゴート王国の勢力が増し、イタリアにおける東ローマ軍は再び苦況に陥る。544年、ユスティニアヌスは再びベリサリウスを指揮官に任命、トティラによるローマ攻撃を退けた。しかし、またもや解任され、隠棲生活に入る。559年、ブルガール人が帝国領内に侵入し、コンスタンティノポリスに接近した為、またもや司令官に任命され撃退に成功。この勝利後、皇帝に謁見した際に無視されたという逸話が残されている。この戦いの後、再び隠棲生活に入った。
晩年は、皇位を巡る陰謀に加担したとしてユスティニアヌスの命令で逮捕されるが、結局、無実と判明し釈放。憤死したともいわれており、晩年も不遇であった(乞食にまで落ちぶれたという逸話もある)。又、家庭においても占領地での政策にまで口を出す悪妻アントニアを抑えられず、自身が宮廷での立場悪化や窮地に陥る事態を招くなど、不幸であった。