かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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ヴィラール


Category: アイルランド・イギリス・フランス
ヴィラール 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

ヴィラールはフランス史上6人しかいない大元帥の1人。
1671年からフランス軍に入隊、オランダ侵略戦争におけるマーストリヒト包囲戦で奮戦したことが注目され、騎兵隊長に任命される。翌1674年にコンデ公ルイ2世の軍に配属されスネッフの戦いに参加、以後もテュレンヌ子爵、リュクサンブール公の下で経験を積み、終戦後はバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの元へ派遣され、大トルコ戦争でマクシミリアン2世と共にオスマン帝国と戦った。
1701年にスペイン継承戦争が始まるとヴィラールはフランスへ呼び戻され、ニコラ・カティナの部下としてイタリア、ドイツ戦線を転戦。1702年からカティナと共にライン川左岸のストラスブールに駐屯、神聖ローマ帝国の司令官・バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと対峙したが、ドナウ川でマクシミリアン2世がフランス側に就いて挙兵するとヴィラールも攻勢に移り、ライン川を大きく南下してスイス国境沿いのフリートリンゲン付近で渡河、フリートリンゲンの戦いで帝国軍を破る。被害が大きかったため11月に左岸に引き上げたが、功績を認められ元帥に昇進、引退したカティナの後任としてライン川戦線を受け持つことになる。
翌1703年にもドナウ川のマクシミリアン2世との合流を計画、ライン川右岸のケールを落として橋頭堡を築き(ケール包囲戦)、東進して5月にドナウ川沿岸のリートリンゲンでバイエルン軍と合流して帝国に衝撃を与える。9月20日にヘヒシュテットの戦いで帝国軍に勝利してアウクスブルクも落とし、ウィーンに迫る勢いであった。ところがアウクスブルク陥落前にフランスに召還され、フランス国内の反乱(カミザールの乱)鎮圧に回される。原因はマクシミリアン2世との対立にあり、ヴィラールはすぐにウィーンを落とすべきと主張していたのに対し、マクシミリアン2世はバイエルン周辺の領土拡大を狙ってヴィラールと衝突。フランス王ルイ14世も数少ない同盟国バイエルンの機嫌を損ねることを恐れヴィラール召還に踏み切り、マルサンをヴィラールの代わりにドナウ川に派遣。
1704年にタラールもドナウ川に進んだが、オランダからイングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルがルートヴィヒ・ヴィルヘルムおよびプリンツ・オイゲンと合流、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍はイングランド・オーストリア同盟軍に大敗、バイエルンは占領されマクシミリアン2世はネーデルラントへ逃亡、タラールは捕虜となりマルサンはストラスブールへ後退、ドナウ川流域の勢力は消滅してライン川戦線も危うくなる。ヴィラールはカミザールの乱鎮圧後の1705年に公爵に叙任、ライン川の司令官に再任され(マルサンはネーデルラントへ異動)、ライン川から北のモーゼル川で陣地を固めマールバラ公の再度のドイツ進出を防ぐ。1707年にシュトルホーフェンを突破、一時はヴュルテンベルクにまで進出するなどドイツにおける脅威であり続けた。しかし、1708年にライン川方面に回されたマクシミリアン2世と再度対立、フランス政府の意向でフランス南部のドーフィネへ異動させられる。ここでは同盟軍の進出を阻んだが、ネーデルラントはアウデナールデの戦いでブルゴーニュ公ルイとヴァンドーム公がマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に敗北、リール包囲戦でも有効な手立てが取れずフランス北部の要塞リールを落とされ、フランスは追い詰められていった。

1709年、同盟から提案された和睦を拒絶したルイ14世は、危機的状況でヴィラールをネーデルラント方面司令官に登用。ヴィラールも全力を尽くして兵をかき集め、フランス防衛線を構築して同盟軍を待ち構えた。対する同盟軍は防衛線の突破を狙いモンスを包囲、ヴィラールは直ちにモンスへ急行、ブーフレールと合流し、南方のマルプラケにある森を堅固な要塞に作り変えて同盟軍を迎え撃った(マルプラケの戦い)。ヴィラールは戦闘中に左足を負傷して後方へ運ばれたためブーフレールに交代、フランス軍は敗北しモンスも陥落したが、熾烈な抵抗の甲斐があって勝利した同盟軍にフランス軍の倍の被害を与え、同盟が突きつけた強硬な和睦路線の拒絶へと大きく前進させた。また、この戦いでの大きな損害でイギリスに政争が吹き荒れ、同盟も次第に態度を軟化していく。
1712年になるとイギリスがフランスと休戦に合意し、オーモンドがイギリス軍を引き上げさせたため同盟軍は劣勢となり、ヴィラールはドゥナを落として補給路も断ち同盟軍を後退させる(ドゥナの戦い)。この勝利で勢いを得たヴィラールは奪われたフランス都市を次々と奪還、オーストリア・オランダへの講和に持ち込んだ。1713年から1714年にかけてオイゲンと和睦交渉を行い、折衝の末に1714年3月6日にラシュタット条約を締結させる。

ヴィラールはルイ15世の下で歴戦の武将として重用され、翌1715年から1718年まで陸軍大臣を務め、1733年にフランス大元帥に任命されるなど重職を歴任。同年のポーランド継承戦争にも出陣、イタリア戦線でオイゲンと対峙したが、高齢のためトリノで病気にかかり、翌1734年に81歳で死去。ヴィラールが創設したヴィラール公爵位は息子のアルマンが継承。アカデミー・フランセーズの席次もアルマンに引き継がれた。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

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