かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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ナポレオン・ボナパルト


Category: アイルランド・イギリス・フランス
ナポレオン・ボナパルト 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 7

ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島において、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学して数学で抜群の成績をおさめ1784年にパリの陸軍士官学校に入学すると、専門として伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく砲兵科を選択。大砲を使った戦術は後の彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを僅か11ヶ月で必要な課程を修了したことを考えればむしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。

やがてフランス革命が勃発し、フランス軍のなかでも王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属してトゥーロン攻囲戦に参加。前任者の負傷により、砲兵司令官となって少佐に昇格。まず港を見下ろす二つの高地を奪取、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにするという作戦を進言して豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン・ボナパルト自身は足を負傷したが、この功績により国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に准将(旅団長)へと昇進、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられる。
1795年、パリにおいてヴァンデミエールの反乱が起こると、国民公会軍司令官となったポール・バラスは知り合いのナポレオン・ボナパルトを副官として登用。実際の鎮圧作戦をこの副官にほぼ一任した結果、首都の市街地で市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功。これによってナポレオン・ボナパルトは将軍に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、ヴァンデミエール将軍の異名をとった。
1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオン・ボナパルトはイタリア方面軍の司令官に抜擢される。ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝。ウィーンへと迫り、オーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結ぶ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得していくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトは熱狂的な歓迎をもって迎えられる。

オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対してはフランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオン・ボナパルトは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言。
1798年、ナポレオン軍はエジプトに上陸、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまう。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥る。これを知ったナポレオン・ボナパルトは、自軍はエジプトに残したまま側近のみをつれ単身フランス本土へ舞い戻った。フランスの民衆はナポレオン・ボナパルトの到着を歓喜をもって迎え、11月、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立し自ら第一執政となって実質的に独裁権を握る。

統領政府の第一執政となり、政権の座に着いたナポレオンであるが内外に問題は山積していた。まずイタリアの再獲得を目指し、ナポレオン・ボナパルトはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策を採る。緒戦は大勝したが苦戦を強いられ、マレンゴの戦いにおいて何とかオーストリア軍に劇的に勝利。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝。オーストリアはライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、1802年にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオン・ボナパルトは内政面でも諸改革を断行。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定を図り、1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布。教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定、交通網の整備を精力的に推進した。フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオン・ボナパルトは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍隊や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。

1804年12月2日、ナポレオン・ボナパルトは即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就く(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面にさまざまな衝撃を与えた。1805年、イギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結。イギリスはこれに対してオーストリア、ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗し、イギリス上陸作戦は失敗に終わる。海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア、ロシア軍はアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突(三帝会戦)。ナポレオン・ボナパルトは巧妙な作戦で完勝し、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲等が取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没する。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものである。
戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス、プロイセンと手を組み、第四次対仏大同盟を結成。これに対しナポレオン・ボナパルトは、10月のイエナの戦い、アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。
並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出してロシア、プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだが、これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。

ナポレオン・ボナパルトは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン、ロシアの連合軍に戦いを挑むが、アイラウの戦いとハイルスベルクの戦いは、猛雪や情報漏れにより苦戦、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまい、更に多額の賠償金を支払わせることとした。こうして、ナポレオン・ボナパルトの勢力はイギリス、スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧、イタリア、ドイツ、ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア、プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃が彼の絶頂期と評される。

その後、スペイン独立戦争で蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦を強いられ、デュポン将軍率いるフランス軍が降伏(皇帝に即位して以来、陸上での最初の敗北)。彼がスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは再起し、イギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成。4月のエックミュールの戦いではナポレオン・ボナパルトが勝利し、5月には2度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでオーストリア軍に敗れ、続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオン・ボナパルトは勝利。オーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。
この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚。1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、この乳児をローマ王の地位に就けた。

1810年にロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開したのに対し、ロシア遠征を決行(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。フランスは同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入(1812年ロシア戦役)、兵站を軽視したため、広大な国土を活用したロシア軍による徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落者を出した。更にモスクワをも大火で焦土とされたため、ナポレオン軍は総退却となった。冬将軍と呼ばれるロシアの厳しい気象条件も重なり、数十万のフランス兵が失われ、無事に本国まで帰還してこられたものは僅か5千。それに加え、パリではクーデター未遂が起こされた(首謀者マレー将軍は後に銃殺)。
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を採り、第六次対仏大同盟を結成。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された新米で訓練不足のフランス若年兵だったが、それでもナポレオン・ボナパルトはプロイセン、ロシア等の同盟軍と、リュッツェンの戦い、バウツェンの戦いに勝って休戦に持ち込む。だが、10月のライプツィヒの戦いでナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。
1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。フランスの北東にはオーストリア、プロイセン軍25万、北西にはスウェーデン軍16万、南方ではイギリス軍10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオン・ボナパルトはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられる。3月31日には首都パリが陥落、外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、フォンテーヌブロー条約の締結の後、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。

ナポレオン・ボナパルト失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。更にフランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買い、ナポレオン・ボナパルトはエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げる。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス、プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗して復位(百日天下。実際は95日)は幕を閉じることとなる。彼はアメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降。南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉された。
実質的な監禁生活の中でもナポレオン・ボナパルトは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残すが、病状は進行して1821年に死去。遺体は遺言により解剖され、死因としては当時公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘されている。その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。

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ハンニバル


Category: スペイン・ポルトガル
ハンニバル 能力データ
魅力 9 / 統率力 10 / 戦闘力 7 / 政治力 8 / 知力 8

ハンニバル・バルカはカルタゴの将軍で、バルカとは「雷光」を意味する。
第二次ポエニ戦争を開始した人物で、カルタゴが滅びた後もローマ史上最大の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも彼の戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど戦術家としての評価は非常に高い。

第一次ポエニ戦争でシチリアをローマに奪われると、ハンニバルの父であるハミルカルは当時未開であったイベリア半島の植民地化政策に乗り出す。そして植民都市カルタゴ・ノウァを建設。後にハンニバルは軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受けるとイベリア半島戦線の指揮を採ってエブロ川南方の制圧に着手。サグントゥムを八ヶ月後に陥落させる。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に政府は彼に対して何の手も打てなかった。
紀元前218年、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。軍勢は歩兵9万、騎兵1万2000、戦象37頭、カルタゴの伝統通り将官以外は全て傭兵。雪が降るほどの寒さや疲労、狭い山道と崖など、行軍は困難をきわめたが、アルプスを越えて(イタリアに到着した時点で歩兵2万、騎兵6万にまで減っていたという)遂にイタリア半島へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争)の始まりである。
ローマはハンニバルの攻撃は予測していたが、まさかアルプス山脈を越えて侵攻してくるとは思ってはおらず、ティキヌスの戦いでハンニバルに撃破され、執政官プブリウス・スキピオも負傷する。ローマ軍の敗北を見るや、周辺のガリア人部族はハンニバルに協力し始め、ハンニバル軍は続くトレビアの戦いでももう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスを破る。
こうして北イタリアに勢力基盤を築き上げると、ハンニバルは更に勢力を拡大すべく南下を開始、エトルリアに侵入する。これに対し、ローマでは新たな執政官グナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスが再びハンニバルの進路を阻もうと進軍するが、トラシメヌス湖畔の戦いで敗北、2人の執政官は戦死した。ここに至ってローマは非常事態宣言を発令、クィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に任命、クィントゥス・ファビウス・マクシムスはハンニバル軍に接近するものの、ハンニバルが戦いの火蓋を切ろうとすると退くということを繰り返す。

紀元前216年、ローマの執政官にガイウス・テレンティウス・ウァッロとルキウス・アエミリウス・パウッルスが当選。クィントゥス・ファビウス・マクシムスの戦法に不満を持つガイウス・テレンティウス・ウァッロは果敢にハンニバルのいるアプーリアへ南進。しかしハンニバルはこの性急さを利用して決戦に持ち込み、史上有名なカンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。この戦いでは5~7万のローマ兵士が戦死、あるいは捕虜になる。執政官ルキウス・アエミリウス・パウッルスと次期執政官に内定していた2名が戦死、更に2名のクァエストル、48名のトリブヌス・ミリトゥムが戦死し、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという過去に例のない完敗を喫した。これ以降、ローマはハンニバルに対して消極的な戦法に徹することになる。
ただ、クィントゥス・ファビウス・マクシムスの消極戦法は次第に効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。ハンニバルはアプリアに進撃するが、同年にタレントゥムを失ってしまう。またロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを戦死させるものの、タレントゥムの損失は大きく、補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。紀元前207年、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途上にメタウルスの戦いで戦死。更にハンニバルと行動を共にしていた弟マゴのリグリア攻略失敗、またピリッポス5世との連携の失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。

ハンニバルがアプリア地方に封じ込まれる中、ローマではプブリウス・スキピオの子でヒスパニアで功績を挙げたスキピオ・アフリカヌスが攻勢に転じようとしていた。シチリア島を占拠した後、軍勢と共にアフリカに渡航。いきなりハンニバルを無視して本土に現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシュファクス率いる騎兵を援軍として戦うが敗北した。この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は、態度を一変してローマとの休戦交渉とハンニバルの召還を画策、十数年ぶりに彼は故国カルタゴに戻る事となった。
スキピオ・アフリカヌスは先の会戦でヌミディア王シュファクスを追撃して王位から引きずり下ろし、ローマ側についていたマシニッサをヌミディア王に即位させていた。これによって、今まで重要な騎兵兵力をヌミディアに依存していたカルタゴ軍は、ローマに対する騎兵の優位を失う。このような状況の中、ハンニバルはスキピオ・アフリカヌスに直接交渉を打診し、対峙する両軍の前で二人は会見。個人的には互いの才能を高く評価していた2人であったが交渉は決裂した。
ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いと異なり、歩兵ではカルタゴ有利なものの騎兵ではローマ軍に劣るという状況で、この劣勢を覆すために先頭に戦象を配備。敵に戦象がいる事を知ったスキピオ・アフリカヌスは、軽装歩兵で編成されている歩兵中隊を広い間隔で配置し、直進しかできない戦象を回避させ、無力化する事に成功。大集団の密集した重装歩兵を基幹とするカルタゴ軍は機動力に勝るローマ軍の騎兵に後方から攻撃され、また前面からはローマ歩兵に包囲されて大敗した。これによってカルタゴの地中海での優位性は完全に失われ、第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。

第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマの同盟国になることを強要されて莫大な賠償金を課せられ、国の前途も危ぶまれた。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった為、彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。
ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を採ってまずは名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手。直接選挙によって議員を任命することとし、また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと変更した。ハンニバルの行政改革は効果を挙げ、賠償金を完済し、軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明した。だが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が逆にローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がり、又ハンニバルの改革は効果的ではあったがかなり強引であった為にカルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許し「ハンニバルがシリア(セレウコス朝)と内通している」とローマに訴えられる。身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出、シリア戦争の後にローマの追っ手から逃れる為にクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命。更に逃亡を図ったが果たせずに自殺した。

ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは、使節として同地を訪れたスキピオ・アフリカヌスと再会し、史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問い掛けられると「第一にアレクサンドロス大王、第二にピュロス、そして第三に自分だ」と答えた。スキピオ・アフリカヌスが重ねて「ザマの戦いであなたが私を破っていたら」と問うと、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという。
とは言え、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦術は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われるほど完成度の高いものであり、ハンニバルが戦術を研究する際にピュロスやアレクサンドロス大王を参考にしていたとしても、現代においては戦術家としての評価はハンニバルの方が高いと言える。
又、ハンニバルは「いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。国外に敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に苦しまされることがあるのと似ている。」のちにローマではポエニ戦争の勝利に伴う社会構造の変化にうまく適応できず、内乱の一世紀と呼ばれる混乱の時代が訪れることとなる。
イタリアでは今でも子供が悪い事をすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と叱ることがあるという。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

アッティラ


Category: イスラエル・トルコ
アッティラ 能力データ
魅力 7 / 統率力 10 / 戦闘力 8 / 政治力 4 / 知力 6

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

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