かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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坂本龍馬


Category: 日本
坂本龍馬 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 7 / 知力 7

土佐藩郷士(下級武士)坂本家の次男として生まれた坂本龍馬は、幼年の頃は寝小便癖が直らず泣き虫の惰弱で、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまった為に三姉の乙女が武芸や学問を教えた。
後に土佐藩を脱藩すると、倒幕および明治維新に大きな影響を与えた幕末の志士で、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈正四位。

坂本龍馬の最期は、後藤象二郎の依頼で越前へ出向き、松平春獄の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談した後、11月5日に帰京。11月15日午後8時頃、坂本龍馬と中岡慎太郎が話していたところへ十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、坂本龍馬たちのいる部屋に押し入った。坂本龍馬達は帯刀しておらず、坂本龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られてほとんど即死。中岡慎太郎と藤吉も致命傷を負い、藤吉は翌日、中岡慎太郎は翌々日の17日に死亡した。墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。墓碑は桂小五郎が執筆。靖国神社にも祀られている。
その後、新選組から分離した御陵衛士の伊東甲子太郎が現場に残された鞘を新選組の原田左之助のものと証言したこともあり、新選組が強く疑われる。 また、海援隊士たちは紀州藩によるいろは丸事件の報復であると疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人である三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。1868年4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長の近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。又、新選組に所属していた大石鍬次郎は坂本龍馬暗殺の疑いで捕縛され拷問の末に自らが坂本龍馬を暗殺したと自白するも、後に撤回している。1870年、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。

日露戦争開戦直前の明治37年(1901年)、皇后美子の夢枕に坂本龍馬が立ち、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、坂本龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。日本海海戦に大勝したことで、皇后の御意思により京都霊山護国神社に「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」が建立された。
尚、郷士坂本家は5代当主の直寛の時の1897年に一族を挙げて北海道に移住したため、現在は高知には坂本龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。

各人の坂本龍馬評価は以下の通り。

住谷寅之介
「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)

平井収二郎
「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)

武市半平太
「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)

東久世通禧
「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)

勝海舟
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)

西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

土方久元
「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」

三吉慎蔵
「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ハーリド・イブン・アル・ワリード


Category: エジプト・サウジアラビア
ハーリド・イブン・アル・ワリード 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 5

ハーリド・イブン・アル・ワリードは「アッラーの剣」という異名で知られるイスラム初期の正統カリフ時代の武将で、リッダ戦争とシリア征服戦の指揮官。
元はメッカのクライシュ族に従う騎兵隊長であり初期のイスラム軍との戦いにも従軍している。625年のウフドの戦いでは200の騎兵を率いてイスラム軍の背後を突き、ムハンマドを負傷させることにも成功。しかしクライシュ族とムハンマドの間にフダイビーヤの和議が成立するとメッカ市内にもイスラムの教えが広まり、ハーリド・イブン・アル・ワリードもこの時に改宗した。

ムハンマドがアラブ世界を統一・膨張すると、イスラムはササン朝ペルシアや東ローマ帝国と争うようになる。ムハンマドは息子サイイドを司令官とする軍勢をシリアへ派遣したが、時の東ローマ軍の待ち伏せ攻撃にあい、イスラム軍は敗北、サイイドは戦死してしまう。この時に機転を働かせて潰走するイスラム軍をまとめ上げ、無事に撤退させた(ムウタの戦い)。ムハンマドはハーリド・イブン・アル・ワリードの活躍に感激して「アッラーの剣」と褒め称えた。
ムハンマド死後は初代カリフ、アブー・バクルに軍権を預けられ、イスラム帝国の大躍進を支える。がしかし、アブー・バクルがカリフ就任から僅か2年で没すると、2代目カリフ、ウマル・イブン・ハッターブからはその突出した軍事的才能を警戒され、後に更迭されている。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ナレースワン


Category: カンボジア・タイ・ラオス
ナレースワン 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5

ナレースワンが幼少の頃、父はピッサヌロークの知事だった。1563年にピッサヌロークがビルマに負けると、養子という名目の人質としてナレースワンはビルマに連行され、ビルマで戦術を学ぶ。
1569年、前期アユタヤ王朝がミャンマーに掌握されると、ピッサヌロークの父はミャンマー政府からの信任を受けてアユタヤの傀儡王に就いた。同年、父王はナレースワンを取り戻すため、娘のスパンカンラヤーをビルマ王の妻として差し出し、代わりにナレースワンを返させた。この後ナレースワンはタイ独立へ向けて、タイ兵士を独特の武道で鍛えた。タイの国技とも言われるムエタイはこの時の武道がその原型となったと言われる。
1574年、ナレースワンは機が熟したと見てアユタヤ王朝の独立を宣言する。同年ミャンマーのシッタン川でビルマ軍の先鋒を銃殺したのを皮切りに、攻めてくるビルマ軍をことごとくうち破った。アユタヤ王は次々と失地を回復し、ナレースワンが王に就く前に、アユタヤ王朝は以前の栄光を取り戻した。王位に就いた後もビルマに対し数々の戦争をし、ある時カンボジアのラウェークを捕らえ斬首してその血で足を洗った(当時インドシナ半島で行われていた一種の戦勝儀式)。1604年、ビルマの王ナンタブレンが毒殺されたのを機にミャンマーのタイ族の治めるシャン族の州がタイに寝返った。新たなビルマの国王がこれを討ったため、ナレースワンはシャン族の保護を目的に自ら兵を率いてアユタヤから北上したが、翌年チエンマイ県の北部で病死した。

現在、彼は救国の英雄としてタイ三大王(ラームカムヘーン、ナレースワン、ラーマ5世)の一人とされており、ムエタイの創設者という意味から神格化されて、ムエタイ選手は彼の像の前で戦勝を祈ることもある。アユタヤ王朝の21代目の王にしてサンペット2世とも呼ばれるナレースワンは、「黒の王」と呼ばれる事もある。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ヴォー・グエン・ザップ


Category: インドネシア・ベトナム・ミャンマー
ヴォー・グエン・ザップ 能力データ
魅力 5 / 統率力 8 / 戦闘力 3 / 政治力 5 / 知力 7

優れた軍事戦術家であったヴォー・グエン・ザップはフランスの植民地支配からベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍と戦ったベトミン(後に南ベトナム解放民族戦線)を指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。その名采配から、「赤いナポレオン」と呼ばれたベトナム人民軍の総司令官にして大将。

当時の首都フエの国立アカデミーに入校。1930年にはインドシナ共産党に加盟し、2年間刑務所に服役。出所後、ハノイのアルベール・サロ学校に入り、法学と政治・経済を学んで卒業する。その後、タンドン学校の歴史教師となるも、1939年にインドシナ共産党が禁止され、ヴォー・グエン・ザップは中華民国内の中国共産党支配地域に亡命した。ザップの妻と従姉妹は、フランス当局により逮捕され獄死。1940年、ヴォー・グエン・ザップはホー・チ・ミンと出会い、間もなく彼の側近の1人となる。ベトナム解放軍の前身である武装宣伝旅団を組織し、八月革命時の権力奪取の際に重要な役割を果たした。同年、4人の党中央委員会常任書記局(後の政治局)員の内の1人となった。

第一次インドシナ戦争時、ベトナム軍総司令官となり、ディエンビエンフーの戦いにおいて旧態依然の物量に物を言わせたフランス軍の裏をかく名采配を何度となく行い、その結果フランス軍を徹底的に打ち破った。しかしながら、1960年代の中ソ対立期間、修正主義者とみなされ、ドソンに追放される。ベトナム戦争が始まった時、ヴォー・グエン・ザップは赦免され北ベトナム軍総司令官に任命され、南ベトナム解放民族戦線を指揮し南ベトナム軍とアメリカ軍と対峙しベトナムを再統一する大きな原動力となった。
終戦後の1976年末、形式上は国防相に留まったが、全権限を剥奪され、全権はヴァン・ティエン・ズン将軍に委譲された。1991年7月には党中央委員会からも除籍され、全てのポストから解任された。

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グナエウス・ポンペイウス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
グナエウス・ポンペイウス 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 5 / 政治力 5 / 知力 8

グナエウス・ポンペイウス・マグヌスのポンペイウス一門はエクィテス(騎士階級)に属し、同盟市戦争でローマ軍の指揮を執っていた父グナエウスから従軍するよう呼び出しを受けて、ポンペイウスは僅か18歳で初陣を飾ることとなった。
紀元前87年、ガイウス・マリウスがルキウス・コルネリウス・スッラがローマを離れていた間に軍を率いてローマへ侵攻したが、マリウスらの粛清から逃れることができた。マリウス亡き後のローマを制圧するためにスッラがギリシアから軍を率いて攻め込んだ際に、ポンペイウスは自費で募兵した3個軍団を率いてスッラの軍へ合流した。紀元前82年、スッラがローマ市を制圧してプロスクリプティオ‎に基づく密告を導入してポプラレス(民衆派)の多くを殺害し自らは終身独裁官(ディクタトル)となった後、ポンペイウスを繋ぎ止めるためにアンティスティアと離婚してスッラの遠縁に当たるアエミリアと結婚するよう強要している。

スッラはイタリア本国が落ち着いたところで、シキリア属州や北アフリカへ逃れて未だ残るポプラレスの征討をポンペイウスに命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手に落ち、ヌミディアへ逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスを殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル(ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。これらの功績を以て、ポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行、25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった。
スッラの死後、反スッラを掲げて挙兵したレピドゥス討伐に赴き、敗死させる。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流した為にセルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げ、元老院から絶対指揮権を与えられてヒスパニアへ向かった。セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、ポンペイウスはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなる。第三次奴隷戦争ではガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕。ローマ市民から絶大な支持を獲得したポンペイウスは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。

又、3カ月足らずで地中海全域の海賊を討伐し、捕獲した船舶400隻、撃沈した船舶1300隻、1万人以上の海賊を殺害し、降伏した海賊は2万人以上に達した。それら海賊をポンペイウスは沿岸から離れた地区へ植民させており、その中の一つであるキリキアのソリは「ポンペイオポリス」と呼ばれることとなるなど、陸だけでなく海に於いてもポンペイウスの軍事能力の高さを示す。
紀元前64年には南下してシリアへ行軍、シリアをローマ属州(シリア属州)とし、更に南下してフェニキアおよびシリアの主要な都市を抑えた後、ユダヤへと進軍。エルサレムを包囲し、3ヵ月後の包囲戦の末に陥落させてアリスタブロスを捕虜とした。これら一連のポンペイウスの遠征によって、ローマの領土は黒海沿岸からカフカス、シリア・パレスティナまで広がり、ポンペイウスはローマへ金20,000タラントを国納し、国庫に収める税収は例年の5000万ドラクマから8500万ドラクマへ伸びたとプルタルコスは記している。
この結果、ポンペイウスは45歳の誕生日に3度目の凱旋式をローマで挙行。海賊征討戦や小アジア・オリエントでの勝利を祝った成果はローマ建国史上で空前のものであり、戦闘シーンを表現する略奪品、捕虜を行軍させ、軍のパレードと共に自らの功績を掲げたプラカードを掲げた。凱旋式の後は壮大な宴会をローマ市民へ提供したことで、ポンペイウスの人気はローマ随一となった。

やがてカエサルとポンペイウスら元老院派との戦争が必至の情勢となった紀元前49年、カエサルがルビコン川を渡りローマ内戦は始まる。ポンペイウスはデュッラキウムの戦いでカエサル軍に勝利したが決定的な打撃を与えるには至らず、ファルサルスの戦いでカエサル軍と再度対戦し、自身人生初となる敗北を喫した。そして敗走し大型のガレー船でエジプトへ到着したものの、ガレー船から離れたと同時に小舟の中に潜んでいたエジプト軍の刺客によって殺害された。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

シェール・シャー


Category: アフガニスタン・インド・パキスタン
シェール・シャー 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 5 / 政治力 9 / 知力 8

トラの王の名をもつスール朝の創始者シェール・シャーの家系はロディー朝に雇われた探険家の一族であり、シェールは15歳の時に「自らの幸福を探すため」に、ジャウンプールへ旅立つ。ジャウンプールでは、勉学に努め、行政をつかさどるのに必要なアラビア語やペルシャ語を習得した。
シェールの行政手腕が立派だったこともあり、間もなく父親より自らのジャギールの土地を運営するように命令されたが、継母との折り合いも悪かったこともあり、父の下を去ってムガル皇帝バーブルのいるビハールへ赴いた。ビハールを統治するバハール・ハーンはシェールの行政手腕に深い印象を受け、シェールに「シェール・ハーン」の地位を授ける。後にシェールはバハール・ハーンの子供であるジャラールの家庭教師を務めるとともに、ワーキルと呼ばれる統治者にも任命された。

1531年、シェールはバーブルの後を継いだフマーユーンからの独立を宣言。シェールの突然の独立は、アフガン人やジャラールにとっては我慢のできないものであり、彼らはベンガルの王であるムハンマド・シャーと同盟を結ぶ。シェールはこれをキウル川で破り、その後ベンガルへ侵攻。その結果、ムハンマド・シャーが統治していたベンガルは、シェールの領域となった。更にシェールは西ベンガルのガウールを攻撃。フマーユーンは、アフガン人の勢力が大きくなることを危惧しベンガル地方への進入を開始したが、シェールの軍隊はビハール地方、ジャウンプールを支配し、フマーユーンの進入に対抗した。チャウサ、ナウジの会戦により、フマーユーンを圧倒したシェールはデリー、アーグラーを占領し、既に54歳になっていたが遂に王朝の創始に成功した。フマーユーンは、アーグラーからラホール、シンドを経由してペルシャに逃亡する生活を余儀なくされ、北インドではスール朝の覇権が確立した。
短い期間でスール朝の領域は西はインダス川流域から東はベンガル地方にまで拡大したが、ウッタル・プラデーシュのカリンジャールを攻囲中、シェールは砲弾の暴発事故で死亡した。死後は息子のイスラームが継いだ。

シェールの統治期間は5年間と短いものであったにもかかわらず、シェールは重要な行政改革を断行。シェールの行政改革の内容は、後にムガル帝国第3代皇帝アクバルに引き継がれることとなる。
経済面においても自由な貿易を妨げる税金に関しては全て撤廃し、道路網の整備に腐心。今日のパキスタンの主要道路である大幹線はシェールの時代に建設されたものである。同時に貨幣制度の改革にも着手し、ルピアあるいはルピーと呼ばれる硬貨を発行し、ルピーはテュルク人によって世界各地に紹介された。そのため、現在のインド、ネパール、スリランカ、インドネシア、モーリシャス、セイシェルといった国々の通貨は現在でもルピーあるいはルピアが用いられている。一方で自らの勢力を維持するためにスパイを多用、犯罪に対しては厳格に対処し、親族であったとしても厳しく処罰したという。

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ナーディル・シャー


Category: イラク・イラン
ナーディル・シャー 能力データ
魅力 2 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 5 / 知力 6

アフシャール朝の初代シャーであるナーディル・シャーは、アナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れ、イラン史では一代の梟雄とされ、その武勇は「ペルシアのナポレオン」、「第二のアレクサンドロス」と言う歴史家もいる。ナーディルの出自は不明だが、1710年代にはアフシャール部族連合を率いてこの地域に勢力を伸ばすようになる。1719年からサファヴィー朝中心部へと勢力を伸ばしていたアフガーン族は遂にイスファハーンを陥落させ、スルターン・フサイン・シャーは降伏・退位して事実上サファヴィー朝は滅亡した。後を継いでガズヴィーンで即位したシャー・タフマースブ2世にイスファハーンの奪還はかなわず各地を放浪したのちホラーサーンに落ち延びる。ナーディルはタフマースプに仕え、タフマースブのもと勢力を拡大、マシュハド掌握、ダムガーン会戦でアフガーンを破りアフガーンを駆逐。絶大な権力を掌中にして破竹の進撃を開始し、タフマースブはイスファハーンで即位式を挙げた。

1732年、ナーディルがホラーサーン方面へ出動中、タフマースブ2世がオスマン帝国との戦いに敗れると、ナーディル・クリーはアルメニア、グルジアを割譲してオスマン朝と和睦する一方、タフマースブをホラーサーンへ追放。タフマースブの8ヵ月の子アッバース3世を擁立してその摂政となった。1736年、シャー・アッバース3世が死ぬと自らがシャーとして即位。ナーディル・シャーを名乗り、アフシャール朝を開いた。
その後、ナーディル・シャーは勢力拡大を目指して、バグダッド攻囲以降、西方で活動してオスマン朝に奪われた領域をほぼ確保する。1738年には東方に転じ、カンダハール、ガズニ、カーボル、ラーホールと進撃を続け、翌年にはムガル朝の大軍を破ってデリーを占領した。この過程でアフガーンのアブダーリー族の武力とインドの巨大な富を得て、翌々年にはイラン方面に転じ、まず北方でマーワラーアンナフルのウズベクを撃破、さらに海軍の整備に着手してバフライン、オマーンを占領した。そして再び西方に転じ、対オスマン戦を再開するが目立った戦果は挙がらずに和睦しナジャフを割譲させたのみである。

ナーディル・シャーはデリーで3万人におよぶ虐殺や、主君タフマースブとその二人の子を処刑し、暗殺未遂事件を受けてホラーサーン太守とした長子リダー・クリー・ミールザーを盲目にし、それを知った人々を処刑、そしてマシュハドの武官や有力者100人余りを反乱あるいはそれに関わったとして処刑するなど残虐かつ暴虐な人間で、ナーディルに対する恐れは増大した。結果、1747年にホラーサーンのクルド反乱鎮圧のために遠征中、アフシャール族家臣の手によって暗殺された。ナーディル・シャーの没後は甥アーディル・シャーが後を継ぐが、大帝国は解体しアフシャール朝は混乱の中で南ホラーサーンの地方勢力へと変容してゆく。ナーディル・シャーの大帝国は短命に終わったが、アフガニスタンを誕生させるドッラーニー朝や後にイランを統一するガージャール朝もナーディル・シャーのもとで活動することで勢力を蓄えていった点でナーディル・シャーはこの地域の次の時代を用意した人物であった。
尚、ナーディル・シャーの活動で軍事以外に特記すべきは都市マシュハドの整備など土木建築分野である。

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金庾信


Category: 韓国・北朝鮮
金庾信 能力データ
魅力 9 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

金庾信は三国時代の新羅の将軍で、新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。562年に新羅に併合された金官国の王家の血を引いており、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。
善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた。唐と連合して百済・倭と歴戦の末660年には百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼしてついに三国を統一した。
668年12月、文武王より太大角干の官位を贈られる。それまでの新羅の官位の最上階の大角干を上回る官位として設置されたもので、79歳で金庾信が死去した時には文武王は嘆き悲しみ、帛1千匹と租2千石とを香典として下賜した。後に興徳王の時代になって、興武大王に封じられる。

「三国史記」においては金庾信に伝記3巻を割り当てているとともに、同伝の末尾では編者の金富軾が、乙支文徳の知略や張保皐の義勇を称えながらも金庾信の功名を図抜けたものと記しており、三国統一の功績を高く評価している。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

バヤズィト1世


Category: イスラエル・トルコ
バヤズィト1世 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 5 / 政治力 2 / 知力 5

オスマン帝国の第4代皇帝バヤズィト1世(バヤジット1世)はムラト1世の子で、父の存命中から軍を率いて軍事的才能を発揮。果断で迅速なことから、「雷帝(ユルドゥルム)」と言うあだ名を与えられた。

1389年のコソボの戦い直後、父ムラト1世がセルビア人の貴族によって暗殺された時、随行していたバヤズィトはすぐさま同行の弟たちを殺害し即位した。即位後は積極的に外征を進め、セルビア・ボスニア・ワラキアなどを服従させ、バルカン半島の大半を支配下に収める。1391年にはコンスタンティノープルを包囲したことからハンガリー王ジギスムントを中心とする十字軍の侵攻を受けたが、ニコポリスの戦いでこれを破った。しかしアナトリアに割拠するトルコ系の諸君侯国を次々に併合したことから、1400年アナトリアの諸勢力が東アナトリアに進出してきたティムールを頼ることになる。ティムールはバヤズィトに対し、「アナトリアの諸君侯に旧領を返還する」よう要求した。このためオスマン帝国は、ティムール朝と対立するに至る。1402年バヤズィトはアンカラの戦いでティムールに敗れて捕虜となり、翌1403年に獄中で失意のうちに病死。

その後バルカンの辺境は、帝国に服属していた諸侯が離反。アナトリアではバヤズィトの滅ぼした諸君侯国が、ティムールの手で復興された。オスマン領に残されたムラト以前の支配地域も、エディルネに拠ったバヤズィトの長男スレイマン・チェレビーが、ヨーロッパ側を支配。アジア側はその弟達、アマスィヤに拠ったメフメトとブルサに拠ったイーサによって分割支配する事となった。オスマン帝国の分断と空位の時代は、1413年バヤズィトとともにティムールに拘禁された後解放された、末弟ムーサを含めた四兄弟の争いがメフメト1世の勝利に帰すまで続いた。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

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プロフィール

ただの世界史好き

Author:ただの世界史好き
かんたん世界歴史人物評は管理人の主観による人物伝です。中国史は別サイトを見ていただくとして、それ以外の世界の歴史人物を出来るだけ沢山採り上げていきます。

 
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