かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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アレクサンドル・スヴォーロフ


Category: キルギス・ロシア
アレクサンドル・スヴォーロフ 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 6 / 政治力 2 / 知力 6

アレクサンドル・スヴォーロフはロシア帝国の常勝不敗の軍人でルムニク・スヴォーロフ伯、イタリア大公。ロシア帝国歴代4人目にして最後の大元帥。

ロシア・スウェーデン戦争、七年戦争、クーネルスドルフの戦いに参加し、他にも数多の功績を立てて大佐に昇進。ポーランドへの干渉を強めるロシアに対してシュラフタを中心とするバール連盟が決起し、ロシアとポーランド王スタニスワフ2世に対する闘争を開始した。スヴォーロフは3個連隊(スモレンスク、スズダリ、ニジニ・ノヴゴロド)を率いてポーランド侵攻に従軍。僅か12日で500キロを踏破しワルシャワを制圧。そして自軍の4~5倍の連盟軍を撃破しクラクフを占領、連盟を降伏させ、少将に昇進した。
ポーランド侵攻と並行して、ロシアはオスマン帝国との間に露土戦争を行っていた(第一次露土戦争)。ポーランド制圧を終えたスヴォーロフは1773年、アストラハン歩兵連隊とコサック騎兵連隊の指揮を引き継ぎ、オスマン軍野営地を奇襲して勝利。その年にバルカン半島に侵攻し、コズルドジで自軍の5倍のオスマン軍を撃破した為、キュチュク・カイナルジ条約が締結され、ロシアはオスマン帝国から多数の利益を引き出した。
この頃、ヴォルガではコサックの首長エメリヤン・プガチョフによる反乱(プガチョフの乱)が勃発。露土戦争終結後まもなく、スヴォーロフはこの反乱軍を撃破して首謀者のプガチョフを捕縛、モスクワへ送る。やがてクリミア軍司令官、カフカス軍司令官に任ぜられ、1780年中将に昇進。そしてカザン軍司令官に異動し大将に昇進した。

1787年、ロシアのオスマン帝国への領土割譲要求をきっかけに再び露土戦争が勃発(第二次露土戦争)。スヴォーロフは3万の軍を率いてオスマン軍がキンブルン要塞へ攻撃を仕掛けてきたのを撃退。この攻防戦の最中に尻と腕を負傷している。傷が癒えたスヴォーロフはオチャコフ要塞を包囲し、6ヵ月間にわたる攻防戦の末に陥落させた。また、この最中にもスヴォーロフは首を負傷。1789年スヴォーロフはフォクシャニでオスマン軍を撃破し、エカチェリーナ2世から聖アンドレイ勲章を授与された。1789年ロシア軍は神聖ローマ帝国軍と連合し、ルムニク・サラトでオスマン軍を撃破した。この際、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世も戦場にいたが、指揮はスヴォーロフが執っている。エカチェリーナ2世は勝利を祝福して、スヴォーロフにルムニク伯の爵位を授け、さらに自身の名を爵位に添えることを許した。また、ヨーゼフ2世も神聖ローマ帝国における伯爵位を授けた。1790年、スヴォーロフはオスマン帝国の重要拠点であるイスマイル要塞を攻撃し陥落せしめる。この際、スヴォーロフはエカチェリーナ2世への報告の中で、陥落はクトゥーゾフの功績であると述べた為、クトゥーゾフは脚光を浴びるようになった。
一方でエカチェリーナの寵臣である総司令官ポチョムキンとの反目が表面化。戦略をめぐって幾度も対立し、このような軋轢から左遷や異動の憂き目をみるが、ポチョムキンの死とともにウクライナ軍司令官に任じられ、再び最前線で軍の指揮を取ることとなった。

1794年、ポーランドの軍人タデウシュ・コシチュシュコがロシアの支配に対して蜂起。急遽派遣されたスヴォーロフは、劣勢から軍を建て直し攻勢に転じる。ロシア軍は勝利を続け、マチェヨヴィツェの戦いでポーランド軍に大打撃を与え、蜂起の首謀者コシチュシュコを捕縛。そしてワルシャワを陥落させる。ポーランド軍はプラガ地区で最後の抵抗を行うが、市街戦で全滅。ワルシャワ陥落によって蜂起は終結し、この功によってスヴォーロフは元帥に昇進したのである。
フランス革命戦争が進行する中で諸国は対フランスで結束、第二次対仏大同盟が結成された。パーヴェル1世はスヴォーロフを呼び戻し、ロシア軍最高司令官に任命。カッサーノ・ダッダの戦いで連合軍はフランス軍を撃破し、ミラノを制圧。スヴォーロフはトリノを制圧した。続いてトレッビアの戦いで勝利してアレッサンドリア陥落、マントヴァ陥落。後顧の憂いの消えたスヴォーロフはノーヴィの戦いで、司令官ジュベールを戦死させて勝利。これによって、ジェノヴァを除く北部イタリアは全て連合軍の手に落ちた。スヴォーロフはサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世から、サヴォイア大公の爵位を授けられた。

この頃、スイスではマッセナ率いるフランス軍とカール大公率いる連合軍が交戦しており、第一次チューリッヒの戦いから、膠着状態が続いていた。これに対し、スヴォーロフは20,000名の軍を率いてスイスへ向かいフランス軍を後退させる。この後のスヴォーロフの大胆なアルプス越えはハンニバル以来のことと賞賛され、ロシア大元帥の地位が授与され、更に凱旋行進を執り行うことを許された。1800年スヴォーロフはサンクトペテルブルクに帰国するが、パーヴェル1世は突如としてスヴォーロフから全ての地位と名誉を取り上げ、いわれのない罪を着せて軍から追放した。

そして1800年、スヴォーロフはサンクトペテルブルクで死去。
後にアレクサンドル1世がスヴォーロフの名誉を回復し、軍神マルスを模したスヴォーロフの彫像を建造してサンクトペテルブルクのマルス広場に置いた。
スヴォーロフの息子アルカディーは、ロシア帝国の将軍としてナポレオン戦争やオスマン帝国との戦いで活躍したが、皮肉なことに父が名声を高めたルムニク川で溺れて亡くなった。孫のアレクサンドル・アルカディエビチもまた、ロシア帝国の将軍として活躍した。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ピュロス


Category: アルバニア・ブルガリア・マケドニア
ピュロス 能力データ
魅力 8 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5

ピュロスは、古代ギリシャのエペイロス王にしてマケドニア王で戦術の天才として名高い。父アイアキデスがディアドコイ戦争で本国を離れた際にエペイロスの国民に反乱を起こされ、当時2歳だったピュロスはイリュリア王国へ脱出する。その後、12歳の時にイリュリア王グラキアスの支援によりエペイロス王位に付くが、17歳の時にグラキアスの子の結婚式に出席するために本国を離れた時、再び反乱が起こって国を追われる。
姉の夫であるマケドニア王子デメトリオス1世を頼り、その後イプソスの戦いに参加。ピュロスは戦で勇名を馳せるもデメトリオスの軍は大敗。デメトリオスとプトレマイオス1世が結んだ条約により、ピュロスはプトレマイオスの元で人質とされた。その時にプトレマイオスの継娘アンティゴネと結婚し、プトレマイオスの支援を受けてエペイロス王に返り咲く。そして、当時マケドニア王であったかつての盟友デメトリオスとの10年戦争を経てデメトリオスを追い払ってマケドニア王の座に着く。しかし2年後には同盟者であったはずのトラキア王リュシマコスにマケドニアを追われた。

当時の新興都市国家ローマがイタリア半島南部の都市国家タラスと戦うことになった時、常備戦力をほとんど持たない経済都市タラスは、当時既に武将として盛名をあげていたピュロスを莫大な報酬を約束して傭兵として雇い入れた。ピュロスはこのローマ軍とのヘラクレアの戦い、アスクルムの戦いを連戦連勝で撃破したが、戦いの度にギリシャから遠征してきたピュロスの軍勢は兵数を減らした。
このローマとの講和の時に、捕虜の身代金を持ってきたローマに対し「私は商売に来たのではない。戦場で決着をつけよう」と答え、講和の前祝としてローマ軍の捕虜を無償で返還。これを受けてローマ側は「講和が成立しなかったら捕虜を戻す」と約束し、結果として講和条件を呑まなかったため律儀に捕虜をピュロスに戻した。同じ頃、ピュロスの侍医がピュロス毒殺をローマに持ちかけるがローマはこれをピュロスに知らせ、感謝したピュロスは先の捕虜を再び返還、これを受けてローマ側もピュロス軍の捕虜を返還したというエピソードがある。

そのうち、シチリア諸都市からは「カルタゴを追い払って欲しい」と、マケドニア王国からは「ガリア人に殺されたケラウノス王(プトレマイオスの息子)の後を継いで王になって欲しい」とそれぞれ要請が入り、結局ピュロスはシチリアからの援軍要請を受ける形でローマ軍の前から去った。
シチリアを版図にすることを目論んだピュロスはカルタゴ側で最大の要塞都市エリュクスを陥落させ、その後もカルタゴを破ったものの、専制的に振舞ったためシチリア諸都市の反感を買い、諸都市からの支援が受けられずタラスへの撤退を余儀なくされた。
その頃には再生力の強いローマ軍はすっかり勢いを取り戻しており、紀元前275年にピュロスはベネウェントゥムの戦いで再度ローマ軍と戦うも敗北し、エペイロスへと撤退した。帰国すると以前の要請を受けてマケドニアに攻め入り、マケドニア王アンティゴノス2世を一蹴して追い出し再びマケドニア王位に付く。

追放されたスパルタの王族クレオニュモスから援軍要請が入ると、マケドニアを息子アレクサンドロス2世に任せて自身はペロポネソス半島へ遠征する。しかし、その留守を突かれてアンティゴノス2世にマケドニアを脅かされ、自身もスパルタ軍に苦しめられる。やがて、スパルタ王アレウス1世の帰還、コリントスからの援軍の到着などで劣勢となり撤退した。次にアルゴスの政争に介入し、その市街戦の最中に名もない女性に瓦を落とされ気絶したところを殺された。また、一説によると使用人に毒殺されたともされる。

ピュロスは宿営地建設の重要さを最初に理解した人物であり、アレクサンドロスの戦術のみならず、その大帝国をも継承せんとし、ディアドコイ、周辺諸国との戦争を繰り返した。
ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは、使節として同地を訪れたスキピオ・アフリカヌスと再会し、言葉を交わしたというエピソードがティトゥス・リウィウスによって伝えられている。スキピオが「史上もっとも偉大な指揮官は誰か」と問いかけると、ハンニバルは「第1にアレクサンドロス大王、第2にエペイロスのピュロス、そして第3に自分だ」と答えた。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

チャンドラグプタ


Category: アフガニスタン・インド・パキスタン
チャンドラグプタ 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 6 / 知力 6

チャンドラグプタは、古代インドのマガダ国に栄えたマウリヤ朝の初代王。
インドのカーストの中で最下位であるシュードラ、或いはバラモンに次ぐカーストであるクシャトリアの出身であるとされている。

紀元前4世紀末に北西インド地方でナンダ朝に反旗を翻して挙兵。ナンダ朝の王ダナナンダはバッサダーラ将軍を派遣して鎮圧に向かわせたがチャンドラグプタはこれを撃破し、首都パータリプトラを占領してダナナンダを殺害、ナンダ朝を滅ぼし新たにマウリヤ朝を創設した。この挙兵には思想家カウティリヤが深く関与したと言われている。
インダス川を越えてセレウコス朝の創始者セレウコス1世が北西インドに侵入した際には、60万の軍勢でセレウコス1 世を圧倒し、セレウコス1世はインド方面の占領を断念。チャンドラグプタはセレウコス1世との協定においてアリア、アラコシア、ゲドロシア、パロパミソスの4州を獲得し、セレウコス1世の娘を息子ビンドゥサーラの妃として迎えた。一方、セレウコス1世には答礼として象500頭が贈られた。こうしてチャンドラグプタはガンジス川流域とインダス川流域、更に中央インドの一部を含むインド史上空前の巨大帝国を形成したのである。

チャンドラグプタの支配は強権的であったといわれ、王位を得ると異国人から解放した人々を自身の奴隷にした。宮殿は尚武の気風で満ち、側近中の側近カウティリヤが「インドのマキャヴェリ」と呼ばれるほどの冷徹な思想家であったことも含め、チャンドラグプタが当時恐ろしい王として見られていた可能性は高い。尚、暗殺を恐れて毎晩寝所を変えていたという逸話がメガステネスによって残されている。
チャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰し、退位して出家しジャイナ教の聖人バドラバーフの弟子となり、出家後の名はプラバーカンドラとした。バドラバーフの下で苦行に打ち込んだチャンドラグプタは最後は絶食して餓死したとされている。尚、彼の死後は息子のビンドゥサーラが王位を継いだ。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ティムール


Category: ウズベキスタン
ティムール 能力データ
魅力 9 / 統率力 10 / 戦闘力 9 / 政治力 8 / 知力 9

モンゴル帝国再興を目指したティムールは、中央アジア、トルキスタン、ペルシア、イラク、シリア、南ロシア、インドへの征服戦争を経て、ユーラシア規模の一大帝国を築いた。シースタンの裏切りにより待ち伏せ攻撃を受けて片手片足を負傷して以後は「跛行のティムール」のあだ名で呼ばれる。

ティムールは元々モンゴル部族の没落貴族の出身であったが、徐々に軍事的頭角を現し勢力伸張した為に、これを叩くべく派遣したモグーリスタン・ハン国の軍勢をバルフ付近で撃破、隣国バダフシャン王国も打ち破って都市を占領。その数ヶ月後にトゥグルク・ティムール死去の跡を継いだイリヤス・ホジャをケシュ付近の戦いで壊滅させ、マーワラーアンナフル支配を果たした。ティムールは大モンゴル国の2代目であったチンギス・ハーンの三男オゴタイ・ハーンの末裔ソユルガトミシュ王子をハンに擁立。さらに同年、かつての義兄で攻め滅ぼしたフサインの寡婦、チンギス・ハーンの子孫にあたる王女を妃に娶って「チンギス家の娘婿(キュレゲン)」を称した。チンギス・ハーンの子孫ではないティムールとその後継者たちは自らハンに即位することはなく、他の遊牧部族の将軍たちと同じアミールの称号を名乗るのみであり、名目上はハンであるチンギス家の娘婿にしてハンの下にあるアミールの最有力者として振舞った。しかし現実には1370年に中央アジアにティムール家の権力が確立し、ティムール家による支配が行われたので、これをティムール朝(ティムール帝国)と呼ぶ。

やがてティムールはモグーリスタンとホラズムに遠征を繰り返し、ジョチ・ウルス内部での抗争に敗れたトクタミシュを支援して彼をハーン位に就ける。北方の安全を確保したティムールはフレグ・ウルスの獲得を目指してペルシアに軍を進め、ジャライル朝を始めとする同地の諸王朝を制圧・服属させる。ところが、トクタミシュが本国に侵攻したのを受けて、その成果を放棄する形で1388年に一旦帰国。キプチャク草原に軍を進めて恩知らずのトクタミシュを叩きのめした。 その後の5年戦役でジャライル朝のスルタンを駆逐してバグダッドを制圧。一方、ティムールに敗れたトクタミシュはマムルーク朝を始めとするイスラム諸国を糾合して反ティムール同盟を結成するが、ティムールは再びキプチャク草原に軍を進めてサライを占領・破壊。1396年にはインドのトゥグルク朝に侵攻して、デリーから莫大な財宝、職人、戦象を奪い去って帰還した。インドから帰還したティムールは反ティムール同盟に止めを刺すために、1400年シリアに軍を進めてダマスカスを破壊。1402年にはオスマン帝国をアンカラの戦いで完膚無きまでに破って雷帝スルタン・バヤズィト1世を捕虜とする。モンゴル帝国の西方を征服したティムールは帝国再現の総仕上げとして旧大元ウルス領に向けて20万の大軍を進めるが1405年に死去し、遠征も打ち切られた。

ティムールは軍事にかけては天才的で、生涯に交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また農村や都市の持つ経済的価値をよく理解しており、ティムール帝国に於いてはヤサ法典が施行された。又、彼が科学者や法学者、知識人、技術者に対して非常に敬意を払っていた事もよく知られている。
都サマルカンドには様々な施設が建設、整備されて繁栄を極め、チンギス・ハーンと比較して俗に「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」と言われる。しかし、敵が抵抗した場合は冷酷かつ徹底的な破壊者でもあった。
モンゴル帝国再建を目指したティムールであったが、西方の統一に成功したのみならずマムルーク朝やオスマン帝国まで服属させるに至り、その業績はモンゴル帝国を上回るものであった。だが、破壊と殺戮もモンゴル帝国に劣るものではなく、その対象の殆どがイスラム諸国であった。イスラム世界がティムールから蒙った打撃は十字軍やモンゴル帝国に匹敵するか、場合によってはそれをも上回るものであり、特にメソポタミア地方は20世紀まで不毛の状態が続いたのである。しかも帝国はティムール自身に殆ど拠っていたから、これが死ぬと分裂してしまった。余談だが、ティムールの5代の孫にあたるバーブルが「第二次ティムール朝」とも言うべきムガル帝国を開く。

尚、グリ・アミール廟にあるティムールの黒石の棺の裏には「私がこの墓から出た時、最も大きな災いが起こる」という言葉が刻印され、棺は開封されることなかった。しかし、1941年6月19日にソ連の調査により初めて開封され、脚の障害などが確認された。その僅か3日後、バルバロッサ作戦(ドイツによるソ連への奇襲)が実行され、これがソ連から見た第二次世界大戦の戦端となった。後に畏怖を抱いたソ連によって蓋が鉛で溶接され、これ以後二度と開封されていない禁断の棺となっている。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ガジャーマダ


Category: インドネシア・ベトナム・ミャンマー
ガジャーマダ 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 6 / 知力 7

ガジャーマダ(若き象の意)はマジャパイト王国の二代王の時代に近衛隊長として活躍し、宰相となって三代王、四代王と三代に渡ってその最盛期を34年間支えた宰相。
強力な地方豪族の割拠する東部ジャワでの反マジャパイト運動を抑え、中部ジャワ、バリ島その他の周辺地域に影響力を及ぼし、四代王ラージャサナガラの時代には、現在のインドネシアとマレーシアの大部分、フィリピン南部という広大な領域を版図とする大帝国を形成。後にオランダからの独立を求める独立期に、民族主義運動の象徴としてマジャパイト国と宰相ガジャーマダの能力、カリスマが高く評価された。

貧しい家の出身のこの名宰相はインドネシア史上最高であり、ジャワ島の伝統文化の中心地ジョグジャカルタ市にある代表的国立総合大学は、このガジャーマダの名が冠されている。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

キュロス2世


Category: イラク・イラン
キュロス2世 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 8 / 知力 7

キュロス2世はアケメネス朝ペルシアの初代国王(諸王の王、皇帝とも呼ばれる)。
キュロスは古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一し、空前の大帝国を建設。同名の王子小キュロスと区別して「大キュロス」、キュロス大王、同名のアンシャン王と区別してキュロス2世と呼ばれる。現代のイラン人はキュロスをイランの建国者と称えている。
メディア王国に従属する小王国アンシャンの第7代王であったキュロスだが、紀元前552年にメディアに反乱を起こし、メディア王に恨みを抱いていた将軍ハルパゴスの裏切りもあってメディア王アステュアゲスを打倒してメディア王国を滅ぼした。次に不死身の1万人(不死隊)と呼ばれた軍団を率いて小アジア西部のリュディア王国に攻め込み、紀元前547年秋のプテリアの戦いでは引き分けたが、テュンブラの戦いではリュディア王クロイソスを破り、続いて首都サルディスを落としてリュディアを征服。ヘロドトスによると、その時キュロスはクロイソスを火刑に処そうとしたが、クロイソスがアポロンに嘆願すると突如雨が降って火を消したため、命を助けた。その後、クロイソスはキュロスに参謀的な役割で仕えることになる。
そして東方など各地を転戦して征服し、ついには新バビロニア王国を倒し、バビロンに入城して「諸王の王」と号し、バビロン捕囚にあったユダヤ人を解放した。彼はさらに東方辺境に転戦して、東はヤクサルテス川から西は小アジアに至る広大なペルシア王国を建設した。

キュロスは、征服した諸民族に対し寛大であったため、後世に理想的な帝王として仰がれ、ユダヤ人を解放したことから旧約聖書ではメシア(救世主)と呼ばれている。ヘロドトスは著書「ヒストリアイ」の中で、キュロスはトミュリスが女王であったマッサゲタイ人との戦いで戦死したという説を伝えている。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

勝海舟


Category: 日本
勝海舟 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 9 / 知力 9

江戸時代末期から明治期にかけての幕臣で、日本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家であり戦略家。
幼名および通称は麟太郎、本名義邦、維新後改名して安芳。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったもの。文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町の生まれ。父小吉の実家である男谷家で誕生。剣術の腕前は、直心影流の免許皆伝。蘭学は、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入り。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得、象山の勧めもあって西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開く。

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊いわゆる黒船が来航し開国を要求された際、勝海舟も海防意見書を提出して老中阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから役入りを果たす。
その後、長崎の海軍伝習所に入門して足掛け5年間を過ごし、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節が米国へ派遣される際には、勝海舟も護衛という名目の咸臨丸にてアメリカのサンフランシスコへ渡航。帰国後、幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。
幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指した勝海舟は神戸に海軍塾を作り、神戸海軍操練所も設立したが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期で、西郷隆盛は勝海舟の智謀に驚愕し、また賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。

慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰して徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任されると、勝海舟は単身宮島の談判に臨んで長州の説得に成功したが、それは時間稼ぎであって徳川慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝海舟がまとめた和議を台無しにしてしまう。憤慨した彼は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまった。

やがて明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると、対応可能な適任者がいなかった幕府は勝海舟を呼び戻し、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前13日と14日には勝海舟と西郷隆盛が会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝海舟は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。

維新後も勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙される。徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生のすべてを捧げる。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許された。

勝海舟は日本海軍の生みの親ともいうべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対し続けた。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官である丁汝昌は弟子とでもいうべき人物であり、丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は堂々と敵将の丁汝昌への追悼文を新聞に寄稿している。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

スキピオ・アフリカヌス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
スキピオ・アフリカヌス 能力データ
魅力 9 / 統率力 10 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 7

スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)は、執政官を輩出した名門貴族であるスキピオ家に生まれる。17歳の時に勃発した第二次ポエニ戦争でカルタゴのハンニバルの天才的な用兵を目の当たりにした。紀元前212年、周囲の勧めでアエディリス(按察官)に立候補するが、法定年齢の30歳未満であった為に護民官が立候補に反対。だがスキピオの人気に押されて異議の申し出を取り下げる一幕もあって公職を得る。
紀元前211年父プブリウスと叔父スキピオ・カルウスがヒスパニアで戦死し、翌年25歳になったスキピオは巧みな挙措と演説で元老院を説得、特例としてプロコンスル(前執政官)待遇で軍団指揮権を授けられ、新たに派遣される軍団の指揮官として就任。アエディリスしか公職を経験していない若者にとって異例の抜擢であった。
当時エブロ川以西のヒスパニアは完全にカルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟ハスドルバル・バルカとハスドルバル・ギスコとがこれを統治していた。海路エブロ川流域に上陸したスキピオは、直接カルタゴ・ノウァを急襲して占拠し、カルタゴ勢を驚かせる。そしてハスドルバル・バルカをバエクラの戦いで破り、ヒスパニアの部族を次々と攻略、イリッパの戦いでカルタゴの残存勢力をヒスパニアから一掃してローマのヒスパニア支配を確立。ローマに帰還した。

紀元前205年、民衆からの支持を得たスキピオは31歳にして執政官に選ばれたが、その若さは元老院の古参議員たちの羨望と嫉妬との対象となってシチリア島以南への渡航は禁じられ、また指揮する軍団も与えられなかった。元老院の主導権を握るファビウス・マクシムスはローマの意表を衝くハンニバルに連敗を余儀なくされた当時の陣頭指揮者であり、その用兵を恐れ、そのアフリカ遠征については北アフリカへの渡航のみ許可。元老院も「ローマ軍の正規の作戦として認めない」という露骨な態度で経済的な支援や援軍は望むべくもなかった。
そんな中、北アフリカに渡航したスキピオはカルタゴ&ヌミディア同盟軍を夜襲で撃破、同盟軍は四万の死者を出した。スキピオの登場によって劣勢に陥ったカルタゴは動揺し、外交交渉を試みながらハンニバルに帰還を要請。ハンニバルは数十年ぶりに母国カルタゴへ戻る。両軍はカルタゴとウティカとの中間地点であるザマで対峙。互いの軍が対峙する中でスキピオとハンニバルは会見するが交渉は決裂、両軍激突の結果ハンニバル軍は大敗する。この勝利によってスキピオは事実上第二次ポエニ戦争を終結させたのである。戦後、スキピオは宿敵カルタゴに寛容な方針で臨んだ。多くのローマ人はスキピオがそのままカルタゴの包囲攻撃に取り掛かると思っていたが、ハンニバルも裁かれることなく休戦が成立。スキピオのこの戦後処理は、多くの若いローマ人達(その中には晩年のスキピオを弾劾する大カトーがいた)の反感を買うことになる。

ローマに戻ったスキピオは熱狂的な歓迎を受け、凱旋式の挙行を許される。そして「アフリカヌス」の尊称を授かり、以降「スキピオ・アフリカヌス」と名乗った。救国の英雄である彼には、他にも終身執政官、更に終身独裁官の提案が何度もなされたが、スキピオはそれらを全て断っている。そして紀元前199年にケンソル(監察官)に選ばれたが、その後数年間は静かな隠遁生活を送っていた。
しかしその後、ローマは圧力をかけた結果シリアのアンティオコス3世のもとに亡命したハンニバルが気になり、シリアに宣戦布告。スキピオ自身は指揮官となった弟の参謀役として従軍し、マグネシアの戦いで勝利。この戦いで弟ルキウスに「アシアティクス」という尊称が送られ、彼は「スキピオ・アシアティクス」と名乗るようになった。

救国の英雄として、その名声に並ぶ者のなかったスキピオであったが、元老院では彼の政敵大カトーが着実に主導権を握り、発言力を強めていく。晩年のスキピオはカンパニア地方のリテルヌムで過ごすようになり、二度とローマには戻らなかった。そして紀元前183年頃に死去。奇しくも彼の死と同時期に最大のライバルであったハンニバルもローマの度重なる追及によって亡命を繰り返した末、カルタゴから遠く離れたビテュニアで自害した。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ベリサリウス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
ベリサリウス 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 7

東ローマ帝国の将軍フラウィウス・ベリサリウス。「大スキピオの再来」とも評され、常に寡兵をもって勝利を収めてきた彼は東ローマ帝国最高の名将と言っても過言ではない。ベリサリウスの軍事的才能と皇帝への忠誠心によって、ユスティニアヌス一世は地中海再統一を果たせた。
農民出身でユスティヌス1世時代に兵士となり、527年のユスティニアヌス一世登位の後に、帝国の軍団司令官の1人となって、対サーサーン朝ペルシア防衛戦に派遣される。緒戦においては敗北するも、少数の兵力でありながら強固な防御陣を構築し、サーサーン朝軍の侵入阻止に成功。この戦いによって皇帝の目にとまり、首都コンスタンティノポリスの司令官へと栄進する。532年に起こった「ニカの乱」においても暴徒を競技場へと追い込み鎮圧させる事に成功、ユスティニアヌス廃位の危機を阻止した。

530年、北アフリカのゲルマン人国家ヴァンダル王国において政変が起こり、東ローマ帝国に敵対的なゲリメルが王位に就くとユスティニアヌスは25歳の若きベリサリウスを総司令官に任命。海からカルタゴに上陸し寡兵ながらも勝利を続け、ゲリメルを捕縛することに成功するが、宮廷などで謀反の声が囁かれ始めた為に急ぎ帰国し、首都において凱旋式を行う栄誉にあずかった。
更にイタリア半島を支配していた東ゴート王国で反乱が起こると、ユスティニアヌスはこれを口実に侵攻を開始。ベリサリウスは、わずかな手勢と共に海路を渡りシチリアを制圧。しかし、東ローマ帝国でも旧ヴァンダル王国領で反乱が起こり、これの鎮圧を命じられた。反乱鎮圧後、再びイタリアに進軍。レッジョ、ナポリを制圧してローマも征服。この後、東ゴート軍は新しい王を立てて反撃を開始し、ローマを包囲する。ベリサリウスは1年半にわたるローマ包囲戦に勝利したが、フランク族の侵入なども受け、戦線は膠着状態に陥った。これにユスティニアヌスの嫉妬とサーサーン朝の侵攻が重なって、イタリアでの指揮権を剥奪される。この直後シリアに派遣され、サーサーン朝の大軍の補給線を遮断することで休戦に持ち込み、再び侵入阻止に成功したが、またしても皇帝の嫉妬を招き、全ての財産は没収され幽閉された。

この間に新たに王位についたトティラの下で東ゴート王国の勢力が増し、イタリアにおける東ローマ軍は再び苦況に陥る。544年、ユスティニアヌスは再びベリサリウスを指揮官に任命、トティラによるローマ攻撃を退けた。しかし、またもや解任され、隠棲生活に入る。559年、ブルガール人が帝国領内に侵入し、コンスタンティノポリスに接近した為、またもや司令官に任命され撃退に成功。この勝利後、皇帝に謁見した際に無視されたという逸話が残されている。この戦いの後、再び隠棲生活に入った。
晩年は、皇位を巡る陰謀に加担したとしてユスティニアヌスの命令で逮捕されるが、結局、無実と判明し釈放。憤死したともいわれており、晩年も不遇であった(乞食にまで落ちぶれたという逸話もある)。又、家庭においても占領地での政策にまで口を出す悪妻アントニアを抑えられず、自身が宮廷での立場悪化や窮地に陥る事態を招くなど、不幸であった。

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