かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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織田信長


Category: 日本
織田信長 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 7 / 政治力 10 / 知力 10

織田信長は天文3年(1534年)、尾張国の戦国大名である織田信秀の嫡男として那古野城で生誕。幼名は吉法師。2歳にして那古野城主となるが幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称される。一方で日本へ伝わった種子島銃に関心を持ち、身分にこだわらず民と同じように町の若者とも戯れて過ごす。まだ世子であった頃、主筋の支配する清洲城下に数騎で火を放つ等、父信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せる。又、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)古渡城にて元服し、上総介信長と称する。
父信秀と敵対していた美濃国の戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘濃姫と政略結婚。翌年に信長は正徳寺で道三と会見し、近江の国友村に火縄銃500丁を注文。父信秀が没し家督を継ぐが、信長の教育係であった平手政秀が自害。当時、尾張下四郡を支配した守護代であった織田信友は信秀の死後に信長が跡を継ぐと、信長の弟信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対、信長は叔父の守山城主信光と協力して信友を殺害。こうして織田信長は那古野城から清洲城へ本拠を移して尾張国の守護所を手中に収める。
弘治2年(1556年)、義父斎藤道三が子の義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援の為、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、こうした中で織田信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)、林通具、柴田勝家らは信長を廃して聡明で知られた弟信勝(信行)を擁立。信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し両派は対立、道三の死去を好機と見た信勝派は同年に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母土田御前の仲介により、信勝、勝家らを赦免する。更に織田信長は、織田一門の宗家であった尾張上四郡の守護代織田信賢を破り(浮野の戦い)これを追放。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立、織田信長は尾張の国主となった。

尾張国統一を果たした永禄3年(1560年)、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2~4万人と号する大軍であったが、織田軍はこれに対し総兵力5,000。今川軍は三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていく。織田信長は静寂を保っていたが、幸若舞「敦盛」を舞った後、昆布と勝ち栗を前に立ったまま湯漬け(出陣前に米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べて出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却(桶狭間の戦い)。桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退。これを機に信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結び(清洲同盟)、この同盟は織田信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持される。

斎藤道三亡き後、桶狭間の戦いと前後して織田斎藤両者の攻防は一進一退の様相を呈していたが、斎藤義龍が急死して嫡男龍興が後を継ぐと信長は美濃に出兵して勝利(森部の戦い)。永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化。その際、信長は妹お市を輿入れさせる一方で、滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出、神戸具盛など当地の諸氏とも戦う。やがて斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称している。
同年11月には僧沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を使用し始め、本格的に天下統一を目指すようになる。
中央ではかねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍足利義輝を暗殺、第14代将軍として義輝の従弟義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。久秀らは更に義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀るが、義昭は奈良から脱出し越前国の朝倉義景のもとに身を寄せる。しかし義景が三好氏追討の動きを見せなかった為、美濃国の織田信長へ接近を図って信長は義昭の三好氏追討要請を応諾。
永禄11年(1568年)、織田信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し上洛を開始。これに対して抵抗した南近江の六角義賢、義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城(観音寺城の戦い)。織田信長が上洛すると、三好義継、松永久秀らは信長の実力を悟って臣従、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡し、唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏。
足利義昭を第15代将軍に擁立した織田信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国するが、織田信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃(六条合戦)。しかし、織田信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せ、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦もあって三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退。更に織田信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求。
同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず北伊勢の神戸具盛と講和。更に北畠具教の次男長野具藤を内応により追放し、滝川一益の調略によって具教の実弟木造具政が信長側に転じると信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末和睦する。後に北畠具教は幽閉され、信雄により殺害される。こうして北伊勢攻略は完了。

元亀元年(1570年)、織田信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐する為、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正、明智光秀、木下秀吉らの働きもあって京に逃れる(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。同年6月、織田信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利(姉川の戦い)。8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣森可成と信長の実弟信治を喪う。9月、織田信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟信興を自害に追い込む。11月、織田信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和。更に足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。窮地を脱する。

元亀2年(1571年)、織田信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにする(比叡山焼き討ち)。一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると徳川領への侵攻を開始。信長の同盟相手であるこの徳川領への侵攻は事前通告無しで行われた。武田軍は遠江国から三河国に侵攻、野田城を攻略(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が織田信長に対して挙兵した為、信長は岐阜から京都に向かって進軍。上京を焼打ちし、正親町天皇からの勅命が出されて義昭と信長は和睦。4月には武田信玄が病死、武田軍は甲斐国へ帰国する。武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もるがこれを破り追放し、室町幕府の勢力は京都から消滅。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させる。
そして織田信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害。長政の母小野殿の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明)。尚、長政に嫁いでいた妹お市らは落城前に落ち延びて織田信長が引き取った。同月、織田信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて伊勢長島に行軍。滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とすが、撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受けて林通政が討死。

織田信長は上洛して従三位参議に叙任されると、数万人の大軍と織田信雄、滝川一益、九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにする。一揆軍も抵抗は激しかったが兵糧不足に陥り、長島城の門徒は降伏。船で大坂方面に退去しようとしたが、織田信長は一斉射撃を浴びせ掛ける。織田信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し焼き討ちで全滅させて長島を占領。翌天正3年(1575年)、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出軍(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出てその後石山本願寺と一時的な和睦が成立。
織田信長包囲網の打破後の天正3年(1575年)、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せる。これに対して信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣、更に徳川軍8,000人と合流。3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃を行わせるなどし、武田軍に圧勝。
この頃、前年に織田信長から越前国を任されていた守護代を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたために一揆の内部分裂が進行。これを好機と見た織田信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍。下間頼照や朝倉景健ら12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐される。これにより越前国は再び織田領となり、織田信長は越前八郡を柴田勝家に与えた。

天正3年(1575年)、織田信長は権大納言に叙任される。又、更に右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任。以後、織田信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた。又、織田信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。織田信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。
天正4年(1576年)、織田信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻す。更に石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。信長は4月、明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣するが伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死。織田信長は若江城に入り動員令を出して集めた僅か3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入る。信長自身も銃撃され負傷する激戦となるが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破(天王寺砦の戦い)。
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにする。ところが石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれる(第一次木津川口の戦い)。この頃、越後守護で関東管領の上杉謙信と信長との関係は悪化し、謙信は石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにして、謙信を盟主、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託。天正5年(1577年)、織田信長は雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあった為、雑賀衆の頭領雑賀孫市らを降伏させ、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立つが、上杉謙信が急死。この好機を活かし織田軍は斎藤利治を総大将に越中国に侵攻(月岡野の戦い)。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せ、またも信長包囲網は崩壊する。
天正期に入ると織田信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせる。上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益、織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備。
更に織田信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、更には岩屋城を落として淡路国を攻略。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となる(第二次天正伊賀の乱)。そして2月には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーション(京都御馬揃え)を行い、正親町天皇を招待している。
天正9年(1581年)織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置き高天神城を奪回、武田氏を追い詰める。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の雑賀孫市が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退。天正10年(1582年)武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。織田信長は大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始。この連合軍は10万人余に上り、武田軍諸城は先を争うように降伏、敗北する。信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻、武田側の城を次々に占領していき信長が武田征伐に出陣した3月には武田領国の本拠である甲府を占領、甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡する。この結果、駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に与え旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付け、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保つ。

天正10年(1582年)、織田信長は四国の長宗我部元親攻略に三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。5月、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は家康を手厚くもてなすが、備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じる。
5月29日、織田信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍、6月2日に本能寺を襲撃。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことがうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。享年49(満48歳没)。

織田信長は大正6年(1917年)に正一位を追贈される。戦後になると信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まる。又、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動、自ら手紙に「第六天魔王」と記したという話から、無神論者、破壊者といったイメージが生まれ、軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘されている。こうしたことから、織田信長が更に存命すれば世界史的にも多大な影響があったやもしれない。後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下であったことからその影響は計り知れず、日本史上極めて重要な人物である。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

雑賀孫市


Category: 日本
雑賀孫市 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 9 / 政治力 3 / 知力 5

雑賀孫市は雑賀衆の棟梁や有力者が代々継承する名前で、鈴木孫市とも言う。
雑賀衆は五つの地域が地縁により結びついている一揆集団であり、非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装、極めて高い軍事力を持つ傭兵集団として活躍。海運や貿易も営んでいた。

1570年(元亀元年)に織田信長と三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、雑賀孫市らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍につく。一方、足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し織田信長軍につく。その後大規模な銃撃戦・攻城戦が繰り広げられ雑賀衆同士が戦うが、石山本願寺の参戦により雑賀衆は一致して石山本願寺につき、織田信長軍と戦う。そして数々鉄砲を有効に活用した織田軍が雑賀衆の鉄砲の技術と量に苦戦、一度は信長自身も負傷する大敗を喫した(石山合戦)。
信長は本願寺を倒す為にまず雑賀衆を抑えることを考え、信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)、雑賀衆に服属を誓わせた。しかしこの戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させた筈の雑賀衆も直ぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担。1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森に顕如を迎え入れ、畠山政尚を奉じて信長と争う姿勢を示す。しかしこれ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立、雑賀衆の内部は分裂して親織田派の雑賀孫市が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると雑賀孫市は羽柴秀吉のもとに逃亡、土橋派が主導権を握る。
以後は専ら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かす。そして家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくると(千石堀城の戦い、第二次紀州征伐)焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したが敵わず壊滅した。

その後、関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取るなどの軍功を挙げ、浪人を経て水戸藩に仕官。鈴木氏の定紋が八咫烏である為、雑賀孫市は自身の火縄銃に「ヤタガラス」と命名している。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

山本五十六


Category: 日本
山本五十六 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 4 / 政治力 3 / 知力 6

山本五十六は明治37年(1904年)、海軍兵学校を席次7番で卒業。その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗艦していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、敵砲弾の炸裂により左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う。
大正8年(1919年)4月5日にアメリカに駐在、ハーバード大学に留学。昭和14年(1939年)8月30日、 阿部信行内閣の発足時に中将の山本は聯合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。次官当時からの懸案事項であった日独伊三国軍事同盟に最後まで反対。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。開戦決定以後は短期決着のため、特に航空機に力を入れて真珠湾攻撃など、大東亜戦争初期における快進撃により、山本五十六は英雄として扱われる。

昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦において、空母4隻と重巡1隻、全艦載機(航空機285機)を喪失する大敗北を喫した。しかし山本五十六はこのことを秘匿し、大本営にも報告せず、陸軍にも情報を提供しなかった。ミッドウェー海戦の敗北が日本国民に知られるようになったのは敗戦後のことである。そのため、指揮官の山本五十六は責任を追及されずに留任した。
昭和18年(1943年)4月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、アメリカ軍に通信文を傍受されたため乗機一式陸上攻撃機をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死した(海軍甲事件)。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦武蔵によって日本本土に運ばれた。山本五十六の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表で公になった。同年6月5日、日比谷公園で国葬が行われ、ナチスドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。この勲章の受章者は160名しかおらず、山本五十六は唯一の外国人受章者である。なお、山本五十六は歴代の連合艦隊司令長官で唯一の戦死者(山本五十六の後任長官である古賀峯一大将は殉職扱い)。

旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。とりわけ、太平洋艦隊司令長官だったチェスター・ニミッツは、い号作戦での前線視察の予定を暗号解読で知ったとき「山本長官は日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」と判断し、殺害計画を実行させたほどである。
彼の教育者としての側面は現在でも高く評価され、彼の遺訓である「男の修行」は、警察予備隊、保安隊、そして自衛隊各教育隊の教育方針として引き継がれている。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

乃木希典


Category: 日本
乃木希典 能力データ
魅力 9 / 統率力 5 / 戦闘力 5 / 政治力 2 / 知力 4

東郷平八郎とともに日露戦争の英雄と言われた聖将乃木希典は若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健なプロイセン軍人に影響を受け、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになった。当時にしては上背があり、頭部が小振りで、足が長く長靴の軍装が映えた。乃木希典は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを司令官として過ごした。

乃木希典は陸軍入隊の際に少佐として任官され、第14連隊長心得として小倉に赴任する。時を置かず勃発した秋月の乱を鎮圧、つづいて西南戦争に従軍。西南戦争では初戦時、退却の際に連隊旗を保持していた兵が討たれ、連隊旗を薩摩軍に奪われてしまう。乃木希典は自責の念から戦死を望むかのような蛮戦を繰り返し、退院後は熊本鎮台の参謀となり第一線指揮から離れた。乃木希典の行動に自殺願望をみた山県有朋や児玉源太郎など周囲が謀った事と言われる。
乃木希典は官軍の実質的な総指揮官であった山県有朋に待罪書を送り、厳しい処分を求めた。しかし、連隊旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた行動はかえって潔いと好意的に受け止められ、罪は不問とされた。これに乃木希典は納得せず、ある日割腹自決を図り児玉に取り押さえられるという事件があったと言われる。「軍旗は天皇陛下から給わったもの。詫びなければならない」と言って譲らない乃木希典に対し、児玉は厳しく諫めたという。後に乃木希典が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。大将にまで上り詰めた乃木希典が、若き日に起こした失態の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壮烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた。

台湾総督時代には抵抗運動鎮圧に苦労し、後の児玉源太郎や明石元二郎のような積極的な内政整備は出来なかった。そのため、本人も総督としての職務失敗を理由に辞職する。
日露戦争では、旅順要塞攻略のために新たに編成された第三軍の司令官に任命される。第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白昼突撃を敢行させ多くの犠牲者を出した。乃木希典はこの失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどし犠牲者を激減させた。この一連の戦闘で次男保典少尉が戦死(長男勝典も、先に行われた南山の戦いで戦死している)。旅順攻略戦が極めて困難であったことや、二人の子息を戦死で亡くしたことから、乃木希典の凱旋には多くの国民が押し寄せた。

後、各戦役での活躍や、徳行から乃木希典は軍の武徳の具現者と見なされた。明治天皇を追った殉死の後は、日本各地に乃木神社が建てられ、文武の神として崇められた。支那事変から大東亜戦争の間、軍部の国家総動員政策のうち精神動員に、乃木は陸軍の英雄として利用され、国民の戦意をあおった。他方日露戦争での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝国で歓喜をもって迎えられた。乃木希典はオスマン帝国でも英雄となり、子どもに乃木の名前を付ける親までいたという。
戦後の乃木希典は、旅順や奉天で戦死・戦傷した部下や遺族の窮状を聞くと、密かに訪れて見舞金を渡したり、従者を送ったりした。やがてこのことは報道機関の知るところになり、乃木希典はさらに神格化された。また、上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木希典宛に届き、感涙にむせんだという逸話も新聞にも取り上げられ、庶民の「乃木将軍」はますます大きくなり、英雄・偉人というだけでなく、ある種の信仰対象という域までになった。

乃木希典は明治天皇からの信望が厚く、明治天皇が後継者と期待していた迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係として学習院院長に命じられる。幼親王も乃木希典を慕い、乃木希典も聡明な親王に陽明学を勧めた。殉死の数日前には、乃木希典は親王に自ら写本した山鹿素行の「中朝事実」と「中興鑑言」を渡し、この本がいかに素晴らしいかを説き、熟読するよう念押しした。当時弱冠10歳の親王は乃木希典のただならぬ気配に、これは遺言だと気付き、思わず「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」と聞いたという。昭和天皇は後々まで、乃木希典の教えや逸話を記者会見で紹介した。
乃木希典はまた、楠木正成を深く崇敬した。乃木希典の尽忠報国(この語源は中国史上の英雄、岳飛)は楠公を見習ったもの。乃木希典は、大正元年9月13日、明治天皇大葬の夕に、妻とともに自刃して亡くなった。日露戦争時において子息を無くし、多くの犠牲者を出したことから、責任を取るために切腹を申し出ていたが、明治天皇から制止され、子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと学習院の院長を命ぜられた。その際「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん」と言われた通り、明治天皇崩御に合わせ殉死した。この事件は当時の社会にあってきわめて衝撃的に受け止められ、結果的に死後乃木希典の盛名を更に高からしめることになった。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

東郷平八郎


Category: 日本
東郷平八郎 能力データ
魅力 9 / 統率力 8 / 戦闘力 4 / 政治力 2 / 知力 7

「沈黙の提督」東郷平八郎は明治時代の日本海軍司令官として日清戦争、日露戦争勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(東郷提督)とその名を広く知られることとなった。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、「陸の乃木、海の東郷」と乃木希典陸軍大将と並び称され、日露戦争の英雄として国民の尊敬を集めた。

東郷平八郎は薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるがハンサムであり、壮年期においては料亭「小松」において芸者より随分もてたとされる。明治の世の中になると海軍士官として明治4年~11年まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷平八郎は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷平八郎の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。

明治27年の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。しかしながら日露開戦前の緊迫時期に海軍首脳の山本権兵衛に呼び戻され、明治36年12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である日高壮之丞がそのまま就任するのが筋であったが、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であった為、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷平八郎が至極順当に選ばれた。この時、明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われている。

明治37年2月10日からの日露戦争では、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮し、6月6日には大将に昇進。そして明治38年5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊)を迎撃、丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の勝利のように喜ばれ、東郷平八郎は同国の国民的英雄となった。 その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。

明治39年、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年には伯爵を授爵。大正2年4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。

昭和9年、膀胱ガンのため満86歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。6月5日に国葬が執り行われ、国葬の際にはイギリス帝国海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦「ケント」、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦の「オーガスタ」をはじめ、フランスとイタリアという当時の「五大国」の艦船をはじめ、オランダや中華民国の艦船が直ちに東京湾を目指して出港。儀仗隊を葬列に参加させ、弔砲を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた。
当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。
尚、死後東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。

太平洋戦争時のアメリカ海軍の諸提督の多くは、若き日に東郷平八郎と接した事もあり、英雄として崇拝していた。特にチェスター・ニミッツは、太平洋戦争でアメリカに勝利をもたらしたことで、「トーゴーの血筋はヤマモト(山本五十六)ではなく、ニミッツへと受け継がれた。」とも表現されたが、東郷平八郎への英雄崇拝の念が非常に強く、若い頃に日本に来て出逢い、話した時の感激を生涯忘れることはなかったという。
第二次世界大戦後、進駐軍によって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷平八郎に関するものには手を触れさせなかった。 ニミッツは後に戦後、荒れ果てた三笠の姿を見て嘆き、修繕する為にポケットマネーを送り、東郷平八郎と若い頃への思いを込めて三笠の復興に協力した。

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