かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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姜邯賛


Category: 韓国・北朝鮮
姜邯賛 能力データ
魅力 5 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 2 / 知力 5

姜邯賛は高麗の重臣でソウル市冠岳区で生まれ、36歳で科挙に合格。
文官だったが1018年上元帥になり、鴨緑江を渡り侵入してきた契丹の大軍を興化鎮にて殲滅した。姜邯賛は身が小さくてあばたづらだったが、伝説によれば元々美男だったが優男は大業を成しにくいと言って天然痘の神を呼んであばたづらになったと言う。著書には「楽道梶倨集」「求善集」などがある。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

張保皐


Category: 韓国・北朝鮮
張保皐 能力データ
魅力 7 / 統率力 6 / 戦闘力 6 / 政治力 7 / 知力 6

張保皐は790年頃に新羅南部の海岸地帯に生まれ、810年中国の山東半島に渡ってその地の軍閥勢力であった徐州武寧軍に入り、徐州節度使配下の軍中小将の地位を得た後、828年頃に新羅に帰国。興徳王に面会して新羅人が中国で奴隷として盛んに売買されている実情を報告し、兵1万を授けられて清海鎮大使に任命された。張保皐は、海賊達を平定するに当たって武力での鎮圧ではなく、奴隷貿易よりも安定して高収入が得られる海運業・造船業の仕事を与える方策を用いたといわれる。
現在の全羅南道莞島に根拠地を置いた張保皐は、新羅南部の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行い、中国沿海諸港に居住するイスラム商人とも交易を行った。このため、張保皐の勢力は東シナ海・黄海海上を制覇し、東アジア一帯の海上王国に発展し、その名前は日本でもよく知られるようになった。

836年に興徳王が死去すると、新羅の都・金城では王族間の後継争いが起こり、一旦は敗れた金祐徴(後の神武王)が張保皐のもとに身を寄せてきた。張保皐は金祐徴を支援するために友軍の鄭年に5千の兵を与えて閔哀王を討ち、金祐徴は神武王として即位することができた。この功により張保皐は感義軍使に任命され、食邑2千戸を賜る。神武王は王位簒奪の成功の暁には張保皐の娘を王妃に迎えると約束していたが、即位後6ヶ月で急死。後を継いだ文聖王は即位後直ち(839年8月)に大赦を行うとともに、張保皐の功績を称えて鎮海将軍の官位と礼服とを授けた。さらに845年3月、先王の盟約に従って張保皐の娘を王妃に迎えようとしたが、張保皐の身分が卑しいという群臣の反対によって取りやめとなり、これを恨んで張保皐は846年に反乱を起こした。文聖王は張保皐の武力を恐れて討伐を躊躇していたが、ここで閻長という剣客が彼の暗殺を請け負い張保皐に偽装投降、宴会の席で張保皐を暗殺した。

張保皐が暗殺された後、文聖王は851年に清海鎮を廃止。張保皐の元部下達は慶州の碧骨県に移動させられたが、ここで再び反乱を起こした。張保皐が係わる一連の兵乱を「弓福之乱」と称することもある。死後に反逆者として扱われてきたため、張保皐に関する資料や彼の拠点は破壊されてほとんど残っておらず、元部下達の一部は九州に移動したと見られている。
「三国史記」では、新羅の三国統一を果たした金庾信の功績を図抜けたものとしながらも、乙支文徳の知略と張保皐の武勇とをともに顕彰している。

9世紀前半、山東半島の港町・赤山(当時多くの新羅商人が居留する所となっていた)に赤山法華院を寄進するとともに、短期で帰国しなければならなかった入唐請益僧円仁の長期不法在唐を実現(不法在留を決意した円仁のために地方役人と交渉して公験「旅行許可証下付」を取り付ける)したのを始め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。京都の赤山大明神は円仁の弟子が円仁の志を継いで新羅人の神を祭るために888年に建てたものである。円仁は五台山の一つ北台葉頭峰(3058メートル)に登頂した際に手に入れた香木で文殊像を造り、帰国実現ののち861年10月、延暦寺に文殊楼を建立(織田信長の比叡山焼き討ちで焼亡。現在の文殊楼は再建したもの)したが、この円仁の延暦寺文殊楼脇には張保皐顕彰碑が建てられている。

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乙支文徳


Category: 韓国・北朝鮮
乙支文徳 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 3 / 知力 6

乙支文徳は、高句麗の将軍であり大臣。
612年、煬帝の命により113万3,800人の兵を以て200万と号する大軍とそれを支える輜重隊による前代未聞の規模で行われた隋の第二次高句麗遠征(麗隋戦争)において、嬰陽王の命を受けて隋軍に偽りの降伏を申し入れ撤退を開始した隋軍に追い討ちをかけ大勝利を収めた。はじめに遼河を越えて高句麗に臨んだ隋の9軍30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることができたのはわずかに2,700人であったという。この記念的な大勝利を、韓国・朝鮮では「薩水大捷」といいその功績は高く評価されてはいるが、戦後の乙支文徳の動向は「三国史記」には記事が残っておらず、死の状況についても詳細は判らない。

金庾信伝の末尾の評では、金庾信の功績を称える引き合いとしてではあるが、張保皐の武勇とともに乙支文徳の智略を顕彰している。現代の韓国の歴史教科書においては、契丹の侵入を退けた姜邯賛、文禄・慶長の役(韓国では壬辰・丁酉倭乱と称する)で日本水軍に大勝利した李舜臣とともに、外敵の侵入から祖国を守った英雄の筆頭として掲げられている。

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金庾信


Category: 韓国・北朝鮮
金庾信 能力データ
魅力 9 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

金庾信は三国時代の新羅の将軍で、新羅の朝鮮半島統一に最大級の貢献をした。562年に新羅に併合された金官国の王家の血を引いており、金庾信の妹が武烈王(金春秋)に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っており、新羅の王族ではなかったが王族との関係は親密であった。
善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立ててこれを補佐し、女王が死ぬと金春秋を武烈王として即位させた。唐と連合して百済・倭と歴戦の末660年には百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼしてついに三国を統一した。
668年12月、文武王より太大角干の官位を贈られる。それまでの新羅の官位の最上階の大角干を上回る官位として設置されたもので、79歳で金庾信が死去した時には文武王は嘆き悲しみ、帛1千匹と租2千石とを香典として下賜した。後に興徳王の時代になって、興武大王に封じられる。

「三国史記」においては金庾信に伝記3巻を割り当てているとともに、同伝の末尾では編者の金富軾が、乙支文徳の知略や張保皐の義勇を称えながらも金庾信の功名を図抜けたものと記しており、三国統一の功績を高く評価している。

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李舜臣


Category: 韓国・北朝鮮
李舜臣 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 6

李舜臣こそ、豊臣秀吉の二度に及ぶ朝鮮出兵から国を救った英雄である。
1592年、豊臣秀吉は肥前国名護屋から16万の大軍を派兵。釜山(プサン)に上陸した小西行長、宗義智の第一軍は釜山城を落とし、続く加藤清正、鍋島直茂ら第二軍も共に北上。
朝鮮国王は迎撃軍を出すが日本軍の苛烈な攻撃に敗北し、首都の漢城も陥落。国王一行は平壌城に逃れたが、ここも小西行長軍によって落城させられ、更に北へと敗走する。一方、加藤清正軍も北東の咸鏡道を占領。二王子を捕縛した。

この前年に全羅左道水軍節度使に任命された李舜臣は、鉄甲戦艦たる亀甲船の建造と訓練に没頭。
かかる窮地に朝鮮国王は明の援軍を要請し、明も李如松を防海禦倭総兵官に任じて四万の援軍を送る。又、朝鮮各地に義兵が起こり、日本軍を脅かし始める。
李舜臣は亀甲船を主力とし、海戦によって日本軍を圧倒。1592年の閑山島の海戦にて日本軍を大破してからは、日本軍は彼を「常勝の海将」と恐れた。
豊臣秀吉の死により、朝鮮から撤退する小西行長軍に対し、李舜臣は航路を遮断する。これを救援しようと現れた島津義広軍500艘の大船団と激突。これを撃破した。

がしかし、この会戦中に弾丸が命中して戦没。
朝鮮国王は彼に忠武の贈り諡を賜り、不滅の偉業を称えた。

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かんたん世界歴史人物評は管理人の主観による人物伝です。中国史は別サイトを見ていただくとして、それ以外の世界の歴史人物を出来るだけ沢山採り上げていきます。

 
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