かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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スカンデルベグ


Category: アルバニア・ブルガリア・マケドニア
スカンデルベグ 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 4 / 知力 5

スカンデルベグは中世アルバニアの君主であり、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄。
アルバニア中部の領主ジョン・カストリオティの子で父がバルカン半島で勢力を広げるオスマン帝国に臣従した為に兄弟と共に人質となり、イスラム教に改宗。ムラト2世の宮廷に仕える騎士として東ローマ帝国やセルビア、ハンガリーとの戦いに従軍、その勇敢さからアレクサンドロス大王にちなんだスカンデルベクの名を受けた。
1437年頃、父の領土を封土(ティマール)として与えられてアルバニアに帰国。オスマン帝国の支配下でアルバニアの軍司令官となったが、1443年にオスマン帝国に反旗を翻す。スカンデルベグはキリスト教に再改宗してヴェネツィア共和国、ナポリ王国やローマ教皇の支援を取り付け、アルバニアの北半を統一。1450年と1466年にはムラト2世とメフメト2世の派遣したオスマン軍を撃退することに成功し、25年間にわたって独立を保つ。

スカンデルベグが病死した後もアルバニアは12年間にわたって独立を維持したが、1480年に最終的にオスマン帝国によって併合される。スカンデルベクは、同時代のハンガリーのフニャディ・ヤーノシュ、ワラキアのヴラド・ツェペシュと並んでオスマン帝国のヨーロッパへの拡大を遅らせた英雄と言われ、19世紀にアルバニア人の民族意識が高まるとオスマン帝国からの独立を目指したスカンデルベクは民族的英雄として高く評価され、アルバニアの独立運動と国民統合に大きな役割を果たした。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ペルディッカス


Category: アルバニア・ブルガリア・マケドニア
ペルディッカス 能力データ
魅力 6 / 統率力 7 / 戦闘力 7 / 政治力 6 / 知力 6

紀元前335年、ピリッポス2世の暗殺に乗じてマケドニアに対して武装蜂起したテバイとの戦いで、陣営警備の任に当たっていた時にペルディッカスはアレクサンドロス3世の命令を待たずに敵の防柵に攻撃をかけ、他の部隊もそれに加わって大規模な戦いとなる。ペルディッカスはテバイ軍の前哨部隊を撃破したが、敵の第二陣への攻撃の際に負傷し、後方に移された後、テバイは陥落した。又、アレクサンドロス3世の北伐にも参加し、王の指揮下でグラウキアスとクレイトスを夜襲して破る。
ペルディッカスはアレクサンドロス3世の東征に参加、グラニコス川の戦い、イッソスの戦い、ガウガメラの戦いといった主要な会戦で重装歩兵部隊を指揮。又、ソグディアナやインドでは別働隊を任されるなど、王の信頼篤い重臣の一人でもあった。ヒュダスペス川の戦いでは騎兵の一隊を率いて別働隊と共に他のマッロイ人の町に分遣され、町を放棄して逃げた敵に追い討ちをかけて多数を殺傷。そしてヘファイスティオンが病死した際にはヘタイロイの指揮官の地位を引き継ぎ、同時に千人隊長の任に就く。又、同年スサにて開催された集団結婚式でメディア太守でペルシア貴族のアトロパテスの娘を娶る。

ペルディッカスは臨終のアレクサンドロス大王によって印綬の指輪を渡され、王の死後に開かれたバビロン会議では主導権を握り、王の遺児でまだ生まれぬロクサネの子(後のアレクサンドロス4世)の暫定的な後見人、摂政となり、帝国の実質的なトップの座に就く。その際、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の異母兄弟のアリダイオスを推す歩兵とそれに迎合した武将メレアグロスとの騒動で一時は殺されそうになるが、騎兵と他の諸将の支持を得て歩兵達を説得して和解し、アリダイオスを王としてロクサネの子が男子ならその共同統治者とし、共にロクサネの子の後見人になることにしてメレアグロスとも妥協、難なきを得る。しかし、その直後にメレアグロスを殺害、ライバルを減らした。
その後、ペルディッカスはバビロン会議で未だ征服されぬカッパドキアを割り当てられた盟友エウメネスの為にカッパドキアへと遠征し、同地の王アリアラテス1世を滅ぼす。又、自らの勢力の安定化の為、重臣アンティパトロスとの連携を目論み、彼の娘ニカイアとの結婚を申し出たが、ペルディッカスを自分の側に引き入れようと考えたアレクサンドロス3世の母オリュンピアスは、自分の娘クレオパトラとの結婚を勧める。そこでペルディッカスは一旦アンティパトロスの娘と結婚し、直ぐ離婚してクレオパトラと結婚しようとした為、アンティパトロスはそれに怒り、彼に警戒心を抱いていたクラテロス、プトレマイオス、アンティゴノス1世らの諸将と共に対ペルディッカス同盟を結び、戦争の運びとなる。

ペルディッカスは小アジアに味方の諸将を配置しつつ、そこでの戦いをエウメネスに任せ、自身はプトレマイオスを滅ぼすべく軍勢を率いてエジプトに向かったが、ナイル渡河に失敗。落胆した兵士達によって反乱が起こり、部下のペイトン、アンティゲネス、セレウコス1世らによって暗殺された。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

アンティパトロス


Category: アルバニア・ブルガリア・マケドニア
アンティパトロス 能力データ
魅力 6 / 統率力 6 / 戦闘力 4 / 政治力 8 / 知力 8

アンティパトロスはピリッポス2世の下で主にギリシア諸国との外交、行政面で働き、王を補佐。ピリッポス2世がトラキア、テッサリアへ遠征していた間はアンティパトロスが国を取り仕切り、紀元前342年の秋にはマケドニアが加盟したアンピクティオン同盟に王の代理としてデルフォイに赴き、カイロネイアの戦いでのマケドニア勝利の後はアテナイへ講和の交渉と戦死者の亡骸を返す為に大使として派遣される。
ピリッポス2世が暗殺され、その息子のアレクサンドロス3世が王位に就くと、アンティパトロスは20歳の若い王を支える。アレクサンドロス3世の東征の際はマケドニア本国に残り、王国の統治、反乱の種のくすぶっていたギリシアを任されるが、王の留守を狙ってトラキアのメムノン、スパルタ王アギス3世が反乱を起こす。アンティパトロスは二正面作戦を避けるためにメムノンを許してアギスと戦い、メガロポリスの戦いでこれを撃破して反乱を鎮圧。彼自身のアギスへの勝利、エピロス王アレクサンドロス1世のイタリア遠征の失敗、トラキアでの将軍ゾピュリオンの敗死などを手紙で王に報告するとともに、東征軍へと増援部隊を送る。

アンティパトロスはアレクサンドロス3世の母オリュンピアスとは当初は友好的な関係で、アレクサンドロス3世は実は彼の子だという噂が流れるほどであったが、この気の強い王母との関係は徐々に悪化していく。現に東征の間、アンティパトロスとオリュンピアスはアレクサンドロス大王へ互いを中傷する手紙を書き送り、アレクサンドロス大王はアンティパトロスに新兵をアジアまで率いてくるように命じ、その一方でクラテロスにベテラン兵達を本国へ返し、アンティパトロスの地位を引き継ぐよう命じた。しかし、摂政位の交代は王の死によりなされることはなかった。アレクサンドロス大王の死は一般的にはマラリアによる病死とされるが、王に親しい友人達を殺され、ギリシアでの勝利のために王から疎まれ、更にオリュンピアスの中傷を受けていたアンティパトロスが王の執事をしていた息子のカッサンドロスに命じて王に毒(アリストテレスが調合)をもって暗殺させたとも言われる。

アレクサンドロス大王の死後、バビロン会議でマケドニアの実権を握ったペルディッカスはアンティパトロスにマケドニア本国およびギリシアの支配権を認め、ペルディッカスを含む他の重臣らと共同で未だ生まれぬアレクサンドロス大王とロクサネの子(後のアレクサンドロス4世)の暫定的な後見人となった。
アンティパトロスはアレクサンドロス大王の死に乗じたアテナイ、アイトリア、そしてテッサリアの反乱(ラミア戦争)に遭う。緒戦で反乱軍に破れラミアに包囲されるが、レオンナトス、クラテロスの助けを借りつつ、クランノンで敵を破り、反乱を鎮圧。その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘との婚約を破棄し、オリュンピアスの娘と結婚したり、彼が帝国の全支配者になろうとしている噂が拡がり、次第にアンティパトロスと他の将軍達はペルディッカスと対立、アンティパトロスはクラテロス、プトレマイオスらと共に反ペルディッカス同盟を組み、戦争となった。
紀元前321年に遠征先のエジプトでペルディッカスが部下に暗殺されると、残ったディアドコイによりトリパラディソスの軍会が開かれ、帝国領と地位の再分配が行われた。この会議でアンティパトロスは帝国摂政となって会議を主導、アレクサンドロス大王の遺児アレクサンドロス4世とアレクサンドロス大王の兄弟ピリッポス3世の後見人としてギリシアを支配するに到る。トリパラディソスの軍会でペルディッカス派として討伐の対象となり、アンティゴノス1世によってカッパドキアのノラに包囲されたエウメネスはアンティパトロスに救援を求める要請をする。そこでアンティパトロスは本来は敵の筈のエウメネスの為に援軍を送り、アンティゴノス1世に包囲を諦めさせた。ここにはアジアの総司令官となって強大化してきたアンティゴノス1世への警戒心があり、その対抗馬としてエウメネスを温存するという意図があったのかもしれない。
その後、アンティパトロスは病を患って職を辞し、やがて死去。その際、彼は自身の地位を老将ポリュペルコンに譲る。しかしこの人事は後の混乱の元となる不味いもので、我こそは父の地位を継ぐものと思っていたカッサンドロスはその人事に不満を抱き、アンティゴノス1世と組んでポリュペルコンに対峙、新たな戦争の火種となってしまったのである。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

アンティゴノス1世


Category: アルバニア・ブルガリア・マケドニア
アンティゴノス1世 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 2 / 知力 7

隻眼であった為、モノフタルモス(隻意)とあだ名されたアンティゴノス1世はグラニコス川の戦いの後、アレクサンドロス3世によってリュディア太守として小アジアに残され、反攻してきたペルシア軍を三度戦って三度破り、その後リュカオニアを征服するなど後方で活動。紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロンで死去した時にバビロン会議での決定を受けて太守としてこの地方を統治し続けた。バビロン会議直後にアンティゴノス1世は友人であった武将エウメネスにカッパドキア遠征の為の援軍を請われるがこれを断った為、エウメネスは帝国摂政の地位にあった実力者ペルディッカスから援軍を受けて遠征の途につく。
間もなくして帝国内ではペルディッカスに対する反対者が続出、これを切っ掛けにディアドコイ戦争が勃発。アンティゴノス1世も反ペルディッカス派に属し、大王の重臣であったアンティパトロスやエジプト太守プトレマイオス等と結び、ペルディッカスと対峙。他方、エウメネスは前述の経緯から、恩のあるペルディッカスの側についた。ペルディッカスは自らエジプトに遠征して、反ペルディッカス派の一角であるプトレマイオスを滅ぼそうとしたが、ナイル渡河に失敗した為に失望した部下の将軍達(セレウコス1世等)に裏切られ、暗殺される。

ペルディッカスが暗殺された後、帝国再編成の為に開かれたトリパラディソスの軍会で帝国の全軍総司令官に任じられたアンティゴノス1世はエウメネスを含むペルディッカス派の追討を命じられ、オルキュニアの戦いでエウメネスを破りカッパドキアのノラに追い詰め、翌年のクレトポリスの戦いでペルディッカスの弟アルケタスらを破り、自害に追い込む。一方この頃、マケドニア本国では帝国摂政となっていたアンティパトロスが死去し、その後継にポリュペルコンが指名されるが、アンティパトロスの子カッサンドロスがこれに不満を持った為、摂政の地位をめぐっての争奪戦が勃発、これがディアドコイ戦争を更に激化させることとなった。
アンティゴノス1世はカッサンドロスの側につき、ポリュペルコンに支援されてノラを脱出したエウメネスと再び戦う。パラエタケネの戦いでは引き分けたがガビエネでこれを降し、捕えたエウメネスを味方にしようと思ったものの、部下の反対により断念。かつての友に暴力を振るうを良しとせず、エウメネスを餓死させることにしたが、あずかり知らぬところで行軍のどさくさに紛れて部下に喉をかき切られた。アンティゴノス1世はエウメネスのために盛大な葬儀を挙げ、遺灰は銀の壷に収めて妻子の元に送った。又、ガビエネの戦いの後、アンティゴノス1世の同盟者でパラエタケネ及びガビエネでアンティゴノス1世の副将的地位にあったメディア太守ペイトンが帝国東方領土への野心をみせた為、これを殺す。

この頃には小アジアを中心にシリアやメソポタミアに及ぶまでアンティゴノス1世の支配力は拡大し、その強大さはディアドコイ中でも特出。これを警戒した他のディアドコイとの対立が激化し、アレクサンドロス帝国の再統一を果たさんと主に東地中海沿岸を中心に戦争を繰り広げていく。
バビロニア太守セレウコス1世と同盟していたアンティゴノス1世だったが、エウメネスを倒すと関係は急速に悪化。アンティゴノス1世はセレウコス1世の領土を奪い、セレウコス1世はエジプトのプトレマイオスのもとへ逃亡。更なる勢力の拡大を目指すアンティゴノス1世はカッサンドロスとの同盟を破棄し、シリアから海路を経由してギリシアに遠征を開始。アンティゴノス1世に反撃せんとプトレマイオスがセレウコス1世を伴ってシリアに攻め込んだのに対し、息子デメトリオスが迎撃するも敗走(ガザの戦い)、アンティゴノス1世自らがシリアに出陣する。しかしその間隙を突かれてプトレマイオスの支援を受けたセレウコス1世がバビロニアに帰還、これを奪回されてしまう。アンティゴノス1世はセレウコス1世を討伐しようとするも手古摺り(バビロニア戦争)、その隙にプトレマイオスが東地中海沿岸で勢力を伸ばした為、プトレマイオスと再び矛を交えることとなった。
そしてサラミスの海戦で息子デメトリオスがプトレマイオスに対し勝利したのを受け、彼と共に王位に就くことを宣言。アンティゴノス1世が王位を宣言したのに伴い、他のディアドコイも王を称するようになった。アンティゴノス1世・デメトリオス父子は続くロードス包囲戦でも優位に戦いを進め、ギリシアに侵攻。自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成したが、アンティゴノス1世の勢力の更なる伸張を恐れた他のディアドコイ達は反アンティゴノス同盟を結んで対抗した。
紀元前301年、アンティゴノス1世はこの同盟を粉砕せんと小アジアのイプソスでセレウコス1世・リュシマコス連合軍と決戦に及ぶも敗れ、自身は投槍を受けて戦死(イプソスの戦い)。82歳。
ディアドコイ中最有力であったアンティゴノス1世が倒れたことで、アレクサンドロス帝国の再統一は不可能となり、分裂が決定的となるのである。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

セレウコス1世


Category: アルバニア・ブルガリア・マケドニア
セレウコス1世 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 8 / 知力 8

セレウコス1世はニカトール(勝利王)と呼ばれたセレウコス朝の創始者。
マケドニア王国の貴族アンティオコスの息子でアレクサンドロス大王の家臣として仕え、大王の東方遠征にも参加して活躍。しかし他のディアドコイたちに比べれば当時影が薄い存在で、ヒュダスペス河畔の戦いではヘタイロイの一員で、王の近衛歩兵部隊の指揮官であった。紀元前324年にスーサで行なわれたギリシア人と東方人の集団結婚式では、アレクサンドロス3世に敗れたソグディアナの実力者スピタメネスの娘アパメーを娶る。このとき王に強いられて東方人の妻を迎えた者たちのほとんどはやがて相手を離別したが、セレウコス1世だけは生涯アパメーを連れ添う。
アレクサンドロス3世がバビロンに帰還してから彼の死の予兆となる不吉な事件が次々に起こるが、そのなかの一つにアレクサンドロス3世が船団を率いてバビロン南方の沼沢地を進んでいた時、彼のかぶっていた帽子とディアデマが風にさらわれて沼の芦に引っ掛かる。このディアデマを王に手渡したのはセレウコス1世であり、彼が王の権威の象徴を手にしたことは後に彼が王位を獲得する前兆であったという。

紀元前323年に大王が若くして世を去ると、セレウコス1世は当初帝国摂政を称したペルディッカスに従い、反ペルディッカス派を討伐するため共にエジプトへ遠征する。しかしナイル川の渡河すらままならないペルディッカスの実力に見切りをつけたセレウコス1世は同僚の将軍達、ペイトンやアンティゲネスと共にペルディッカスをナイル川河畔で暗殺。これを受けて大王の重臣のひとりであったアンティゴノスが急遽諸将をシリアに召集し、事態収拾と総督領の再分配のためにトリパラディソスの軍会を開催。セレウコス1世はここでバビロニアの太守位を獲得し、名実ともにディアドコイとしての地歩を確立した。
しかし早くも同年のうちに帝国全軍総司令官となったアンティゴノスと、旧ペルディッカス派とされ追討を宣言されたカッパドキア太守エウメネス等とのあいだで争いが再開。帝国摂政アンティパトロスが死去すると、その後継者争いも絡まって大王の遺領をめぐるディアドコイの衝突が激化し、セレウコス1世はおおむねアンティゴノスの側に組して戦いつつ、自らの勢力を拡大していく。
紀元前316年のイラン南部におけるパラエタケネの戦い、およびガビエネの戦いでアンティゴノスは遂にエウメネスを敗死させたが、この直後からセレウコス1世はアンティゴノスに疎まれるようになり、更に事後の領土再配分をめぐってアンティゴノスと決裂。同じくアンティゴノスと決裂したメディア太守ペイトンが滅ぼされると、アンティゴノスの脅威から逃れるためにバビロンを脱出し、エジプトへ奔ってプトレマイオスと結んだ。両者はガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破り、これを挽回すべくアンティゴノス自らがシリアに出陣してくると、セレウコス1世はその間隙を突いて東方への帰還を果たす。この時のセレウコス1世の率いる兵力はプトレマイオスから譲り受けた僅かなものだったが、セレウコス1世の善政を懐かしむバビロンの住民達はこぞって味方し、バビロンを回復。セレウコス朝を開始した。

その後アンティゴノスから攻撃を受けるが、アンティゴノス派の有力者であったニカノルをティグリス河畔で破ってバビロニアの支配を確立(バビロニア戦争)。更にアンティゴノスとセレウコス1世とが対峙する間にプトレマイオスが東地中海に勢力を伸ばした為、アンティゴノスはセレウコス1世の早期撃破を断念し、プトレマイオスとの戦いに注力せざるをえなくなり、一時ディアドコイ戦争が膠着化。セレウコス1世はこれを機として中央アジア・インド方面に兵を進める。しかしセレウコス1世はインダス流域で、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の初代王チャンドラグプタが率いる圧倒的な大軍と遭遇。ここでチャンドラグプタと協定を結び、ガンダーラやゲドロシアなど東部辺境地域を割譲、自身の娘をチャンドラグプタの息子ビンドゥサーラの妃としてマウリヤ朝の後宮に入れるのと引き換えに500頭もの戦象を獲得。これは地中海世界に戦象が本格的に姿を現すきっかけとなるとともに、後のイプソスの戦いで彼の勝利に大きな貢献をするものでもあった。
そして西方に戻ったセレウコス1世はプトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコス等が結んだ反アンテイゴノス同盟に加わる。中部アナトリアのイプソスで、セレウコス・リュシマコス連合軍はチャンドラグプタに譲り受けた戦象の活躍もあってアンティゴノス・デメトリオス父子に圧倒的な勝利をおさめて撃破(イプソスの戦い)。アンティゴノスは戦死し、デメトリオスは敗走した為、セレウコス1世はアジアにおける覇権を確立する。しかし、勢力を伸張させたセレウコス1世はリュシマコスやプトレマイオスに警戒されることになり、彼等と対立するようになったことから、イプソスの戦いで敗走したデメトリオスと同盟することで、これに対抗した。
イプソスの戦いの結果、セレウコス1世はシリア北部とアナトリアの中部を獲得。新しい王国の首都とすべく翌年にシリアのオロンテス河畔で新たな都市アンティオキアの建設が始まる。その他にも多くの都市を建設し、特にチグリス河畔に築かれたセレウキアは王国の第二の都として、かつてのバビロンにかわり繁栄を極めることになる。
またシリア、セリキアなどに及ぶ広大な支配圏を72の行政区に再編し、領域内における通貨の統一を進め、長子アンティオコスにデメトリオスの娘で一時自分の寵妃であったストラトニケを与えて副王に任じ、王国東部の支配を委ねた。彼はやがてヨーロッパにも版図を拡大し、黒海とアゾフ海、カスピ海を大運河で結ぶ構想を抱いていたともいう。

紀元前288年、リュシマコスに敗れてマケドニアの王位を失ったデメトリオスが再起を図ってセレウコス1世のアナトリアの領土を奪おうと攻め込んできたがこれを降して虜囚とし、デメトリオスが死ぬまで彼をシリアに監禁した。その後コルペディオンの戦いでリュシマコスを敗死させ、更に故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征を開始するが、途上でマケドニア王にならんと野心を抱いた同行者のプトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオスの息子)によって暗殺されてしまった。
セレウコス1世の時代、王朝はまさに全盛期だったが、その後は徐々に衰退してゆくこととなる。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

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かんたん世界歴史人物評は管理人の主観による人物伝です。中国史は別サイトを見ていただくとして、それ以外の世界の歴史人物を出来るだけ沢山採り上げていきます。

 
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