かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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カニシカ大王


Category: アフガニスタン・インド・パキスタン
カニシカ大王 能力データ
魅力 8 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 8 / 知力 7

1~3世紀、古代インドから中央アジアにかける広大な地に栄えたクシャーン朝の最盛期を現出したのがカニシカ大王。カニシカ大王は独自の暦(カニシカ紀元)を制定し、インド北西を根拠地としながら東進してパータリプトラやネパールのカトマンズ近辺にまで勢力を拡大。その治世で仏教に帰依して厚く保護した為、クシャーン朝の支配領域、特にガンダーラを中心に仏教美術の黄金時代が形成されたという名君と言っていい人物。史上初めて仏像が登場したのもこの時代。
カニシカ大王のもとでガンダーラは周辺文明の中心となり、その地で栄えた仏教美術はアジア全域に広がった。ペシャーワルには120メートルもの巨大な仏塔が建立された他に数多くの仏教遺跡が残り、後世東アジアからの巡礼地として神聖視される。カニシカ大王の死後、王国は東方領土を失い始めて西方ではサーサーン朝の支配下に入った。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ティープー・スルタン


Category: アフガニスタン・インド・パキスタン
ティープー・スルタン 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 6 / 政治力 7 / 知力 8

ティープー・スルターンは南インドの雄マイソール王国の将軍ハイダル・アリーの嫡子として生まれ、対英闘争にその一生を費やし、「マイソールの虎」と畏怖された。当時ベンガル周辺にはイギリスの勢力が確立されており、周囲を侵食しつつインド全土の植民地化を図っていた。ティープー・スルターンは父の片腕として若い頃より活躍しており、プッラルールの戦いでは父の副将としてイギリス軍を包囲殲滅し司令官以下多数を捕縛している。
1782年に父ハイダルが病没すると、ティープー・スルターンはウォデヤ家を廃絶して自ら国王に即位し、対英戦争を継続する。その優れた戦術と近代的なマイソール軍はイギリスを大いに悩ませたが、しかしマラータ諸侯がイギリスと不可侵協定を結び(多額の賄賂が使われた)その圧力を一手に受けるようになった後は徐々に押され、4年の戦いの後に休戦協定を結んだ。この戦いでティープー・スルターンの威名は大いに高まり、マイソールの虎と渾名されてその名はヨーロッパにまで知られるようになった。

戦いがやむと、ティープー・スルターンは王国と軍の近代化を更に推し進め、またイギリスに対抗するためアフガニスタン、オスマン帝国、更には遠くフランスのナポレオンにまで使者を送り、共闘を持ちかけた。中でもナポレオンはかなりの興味を示したらしいが、折からの対露関係悪化で積極的支援にまでは至らなかった。やがてイギリス軍が圧倒的大軍でマイソールの王都シュリーランガパトナムを攻撃。ティープー・スルターンは自ら剣と銃を執って奮戦し、壮絶な最期を遂げた。このマイソール王国の滅亡はもはやインドにはイギリスに抵抗する勢力が無くなった事を意味し、この後インドはなすすべもなく蹂躙されていくことになる。ティープー・スルターンは当時のインドにあってほぼ唯一イギリスに正面から戦いを挑み一定の成果を収めた人物であり、世界的な視野を持っていた稀有な人物だったと言える。政戦両面に長じるだけでなく宗教的にも寛容で多数の言語に堪能な教養豊かな人物でもあり、彼の終焉の地となったバンガロールの宮殿は今でも有名な観光地となっている。

半世紀余の後のインド大反乱で勇戦の後戦死したジャーンスィー王妃ラクシュミー・バーイーと並び、現在のインドでは民族的な英雄して尊敬を集めている。ティープー・スルターンはイギリスに対抗する為に軍の近代化を押し進めたが、そのひとつが当時のロケット兵器の水準を遥かに凌ぐロケット砲部隊だった。このロケット自体も強力であったが、ティープーの先見の明は更にそれを大規模に運用し、かつ機動力を与えることとなった。移動を容易にする為、台車に装荷。これは後に第二次世界大戦で出現した大形ロケット砲に先んじる物で、その運用のために5000人規模のロケット砲部隊が編成された。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

アラーウッディーン・ハルジー


Category: アフガニスタン・インド・パキスタン
アラーウッディーン・ハルジー 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 6

アラーウッディーン・ハルジーはハルジー朝の第3代スルタンで、奴隷王朝を滅ぼしてハルジー朝を開いたジャラールッディーン・ハルジーの甥にあたり、娘婿でもあった。1296年にデカン高原遠征を率いて大勝を収め、ハルジー朝における自身の実力を確固たるものとし、同年伯父のジャラールッディーンを軍隊の支持のもとに暗殺してその息子をしばらく擁立した後にそれも廃して自らスルタンとして即位した。自らを「第2のアレクサンダー」と自称。

1297年、北インドに侵攻したチャガタイ・ハン国の軍をデリー付近で撃退。1299年から1303年のラージプート遠征ではパラマーラ朝、チャンデーラ朝など北インドの有力な諸王朝を滅ぼすとともに、マリク・カーフールに軍を預けて積極的な南インド遠征を行なった。1307年にヤーダヴァ朝に壊滅的な打撃を与え、王のラーマチャンドラを捕らえてデリーへ連行し、1310年にはカーカティヤ朝の首都・ワランガルを陥落させ、遙か南方のホイサラ朝を攻略し、バッラーラ3世をデリーまで連行している。このようにインド亜大陸南端近くまで征服し、南インドのヒンドゥー系王朝を属国化した。また、現在のアフガニスタンの山岳地帯に駐留してインドへの侵入を繰り返すモンゴル軍を5度にもわたって撃退して譲らず、事実上のインド統一を実現した。

内政面においては、スパイ網と密告制度によるテュルク系の貴族の統制、地方の農村で中間支配層となるヒンドゥー教徒の領主・地主層の抑圧を行ってスルタン権力を強化し、厳しい物価統制や検地の実施による税収の安定強化をはかり、強大な直属軍をつくって反乱を防ぐなど強権的な政策をとった。また、南インド遠征の成功により北インドには莫大な戦利品がもたらされたので、ハルジー朝は文化的・経済的にも大きく繁栄し、版図的にもデリー・スルタン朝の最盛期を実現した。

晩年のアラーウッディーン・ハルジーは奢侈に走るようになり、強権を背景に失政を繰り返して、貴族たちの不満を鬱積させていった。1316年、享年51で死去。末子のシハーブ・ウッディーン・ウマル・シャーが宦官のマリクによって後継者として擁立されたが宦官や貴族達の間での内紛がたちまち起こり、アラーウッディーン・ハルジーの死からわずか4年後の1320年にハルジー朝は滅亡した。

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シェール・シャー


Category: アフガニスタン・インド・パキスタン
シェール・シャー 能力データ
魅力 7 / 統率力 7 / 戦闘力 5 / 政治力 9 / 知力 8

トラの王の名をもつスール朝の創始者シェール・シャーの家系はロディー朝に雇われた探険家の一族であり、シェールは15歳の時に「自らの幸福を探すため」に、ジャウンプールへ旅立つ。ジャウンプールでは、勉学に努め、行政をつかさどるのに必要なアラビア語やペルシャ語を習得した。
シェールの行政手腕が立派だったこともあり、間もなく父親より自らのジャギールの土地を運営するように命令されたが、継母との折り合いも悪かったこともあり、父の下を去ってムガル皇帝バーブルのいるビハールへ赴いた。ビハールを統治するバハール・ハーンはシェールの行政手腕に深い印象を受け、シェールに「シェール・ハーン」の地位を授ける。後にシェールはバハール・ハーンの子供であるジャラールの家庭教師を務めるとともに、ワーキルと呼ばれる統治者にも任命された。

1531年、シェールはバーブルの後を継いだフマーユーンからの独立を宣言。シェールの突然の独立は、アフガン人やジャラールにとっては我慢のできないものであり、彼らはベンガルの王であるムハンマド・シャーと同盟を結ぶ。シェールはこれをキウル川で破り、その後ベンガルへ侵攻。その結果、ムハンマド・シャーが統治していたベンガルは、シェールの領域となった。更にシェールは西ベンガルのガウールを攻撃。フマーユーンは、アフガン人の勢力が大きくなることを危惧しベンガル地方への進入を開始したが、シェールの軍隊はビハール地方、ジャウンプールを支配し、フマーユーンの進入に対抗した。チャウサ、ナウジの会戦により、フマーユーンを圧倒したシェールはデリー、アーグラーを占領し、既に54歳になっていたが遂に王朝の創始に成功した。フマーユーンは、アーグラーからラホール、シンドを経由してペルシャに逃亡する生活を余儀なくされ、北インドではスール朝の覇権が確立した。
短い期間でスール朝の領域は西はインダス川流域から東はベンガル地方にまで拡大したが、ウッタル・プラデーシュのカリンジャールを攻囲中、シェールは砲弾の暴発事故で死亡した。死後は息子のイスラームが継いだ。

シェールの統治期間は5年間と短いものであったにもかかわらず、シェールは重要な行政改革を断行。シェールの行政改革の内容は、後にムガル帝国第3代皇帝アクバルに引き継がれることとなる。
経済面においても自由な貿易を妨げる税金に関しては全て撤廃し、道路網の整備に腐心。今日のパキスタンの主要道路である大幹線はシェールの時代に建設されたものである。同時に貨幣制度の改革にも着手し、ルピアあるいはルピーと呼ばれる硬貨を発行し、ルピーはテュルク人によって世界各地に紹介された。そのため、現在のインド、ネパール、スリランカ、インドネシア、モーリシャス、セイシェルといった国々の通貨は現在でもルピーあるいはルピアが用いられている。一方で自らの勢力を維持するためにスパイを多用、犯罪に対しては厳格に対処し、親族であったとしても厳しく処罰したという。

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チャンドラグプタ


Category: アフガニスタン・インド・パキスタン
チャンドラグプタ 能力データ
魅力 7 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 6 / 知力 6

チャンドラグプタは、古代インドのマガダ国に栄えたマウリヤ朝の初代王。
インドのカーストの中で最下位であるシュードラ、或いはバラモンに次ぐカーストであるクシャトリアの出身であるとされている。

紀元前4世紀末に北西インド地方でナンダ朝に反旗を翻して挙兵。ナンダ朝の王ダナナンダはバッサダーラ将軍を派遣して鎮圧に向かわせたがチャンドラグプタはこれを撃破し、首都パータリプトラを占領してダナナンダを殺害、ナンダ朝を滅ぼし新たにマウリヤ朝を創設した。この挙兵には思想家カウティリヤが深く関与したと言われている。
インダス川を越えてセレウコス朝の創始者セレウコス1世が北西インドに侵入した際には、60万の軍勢でセレウコス1 世を圧倒し、セレウコス1世はインド方面の占領を断念。チャンドラグプタはセレウコス1世との協定においてアリア、アラコシア、ゲドロシア、パロパミソスの4州を獲得し、セレウコス1世の娘を息子ビンドゥサーラの妃として迎えた。一方、セレウコス1世には答礼として象500頭が贈られた。こうしてチャンドラグプタはガンジス川流域とインダス川流域、更に中央インドの一部を含むインド史上空前の巨大帝国を形成したのである。

チャンドラグプタの支配は強権的であったといわれ、王位を得ると異国人から解放した人々を自身の奴隷にした。宮殿は尚武の気風で満ち、側近中の側近カウティリヤが「インドのマキャヴェリ」と呼ばれるほどの冷徹な思想家であったことも含め、チャンドラグプタが当時恐ろしい王として見られていた可能性は高い。尚、暗殺を恐れて毎晩寝所を変えていたという逸話がメガステネスによって残されている。
チャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰し、退位して出家しジャイナ教の聖人バドラバーフの弟子となり、出家後の名はプラバーカンドラとした。バドラバーフの下で苦行に打ち込んだチャンドラグプタは最後は絶食して餓死したとされている。尚、彼の死後は息子のビンドゥサーラが王位を継いだ。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

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Author:ただの世界史好き
かんたん世界歴史人物評は管理人の主観による人物伝です。中国史は別サイトを見ていただくとして、それ以外の世界の歴史人物を出来るだけ沢山採り上げていきます。

 
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