かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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ティムール


Category: ウズベキスタン
ティムール 能力データ
魅力 9 / 統率力 10 / 戦闘力 9 / 政治力 8 / 知力 9

モンゴル帝国再興を目指したティムールは、中央アジア、トルキスタン、ペルシア、イラク、シリア、南ロシア、インドへの征服戦争を経て、ユーラシア規模の一大帝国を築いた。シースタンの裏切りにより待ち伏せ攻撃を受けて片手片足を負傷して以後は「跛行のティムール」のあだ名で呼ばれる。

ティムールは元々モンゴル部族の没落貴族の出身であったが、徐々に軍事的頭角を現し勢力伸張した為に、これを叩くべく派遣したモグーリスタン・ハン国の軍勢をバルフ付近で撃破、隣国バダフシャン王国も打ち破って都市を占領。その数ヶ月後にトゥグルク・ティムール死去の跡を継いだイリヤス・ホジャをケシュ付近の戦いで壊滅させ、マーワラーアンナフル支配を果たした。ティムールは大モンゴル国の2代目であったチンギス・ハーンの三男オゴタイ・ハーンの末裔ソユルガトミシュ王子をハンに擁立。さらに同年、かつての義兄で攻め滅ぼしたフサインの寡婦、チンギス・ハーンの子孫にあたる王女を妃に娶って「チンギス家の娘婿(キュレゲン)」を称した。チンギス・ハーンの子孫ではないティムールとその後継者たちは自らハンに即位することはなく、他の遊牧部族の将軍たちと同じアミールの称号を名乗るのみであり、名目上はハンであるチンギス家の娘婿にしてハンの下にあるアミールの最有力者として振舞った。しかし現実には1370年に中央アジアにティムール家の権力が確立し、ティムール家による支配が行われたので、これをティムール朝(ティムール帝国)と呼ぶ。

やがてティムールはモグーリスタンとホラズムに遠征を繰り返し、ジョチ・ウルス内部での抗争に敗れたトクタミシュを支援して彼をハーン位に就ける。北方の安全を確保したティムールはフレグ・ウルスの獲得を目指してペルシアに軍を進め、ジャライル朝を始めとする同地の諸王朝を制圧・服属させる。ところが、トクタミシュが本国に侵攻したのを受けて、その成果を放棄する形で1388年に一旦帰国。キプチャク草原に軍を進めて恩知らずのトクタミシュを叩きのめした。 その後の5年戦役でジャライル朝のスルタンを駆逐してバグダッドを制圧。一方、ティムールに敗れたトクタミシュはマムルーク朝を始めとするイスラム諸国を糾合して反ティムール同盟を結成するが、ティムールは再びキプチャク草原に軍を進めてサライを占領・破壊。1396年にはインドのトゥグルク朝に侵攻して、デリーから莫大な財宝、職人、戦象を奪い去って帰還した。インドから帰還したティムールは反ティムール同盟に止めを刺すために、1400年シリアに軍を進めてダマスカスを破壊。1402年にはオスマン帝国をアンカラの戦いで完膚無きまでに破って雷帝スルタン・バヤズィト1世を捕虜とする。モンゴル帝国の西方を征服したティムールは帝国再現の総仕上げとして旧大元ウルス領に向けて20万の大軍を進めるが1405年に死去し、遠征も打ち切られた。

ティムールは軍事にかけては天才的で、生涯に交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また農村や都市の持つ経済的価値をよく理解しており、ティムール帝国に於いてはヤサ法典が施行された。又、彼が科学者や法学者、知識人、技術者に対して非常に敬意を払っていた事もよく知られている。
都サマルカンドには様々な施設が建設、整備されて繁栄を極め、チンギス・ハーンと比較して俗に「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」と言われる。しかし、敵が抵抗した場合は冷酷かつ徹底的な破壊者でもあった。
モンゴル帝国再建を目指したティムールであったが、西方の統一に成功したのみならずマムルーク朝やオスマン帝国まで服属させるに至り、その業績はモンゴル帝国を上回るものであった。だが、破壊と殺戮もモンゴル帝国に劣るものではなく、その対象の殆どがイスラム諸国であった。イスラム世界がティムールから蒙った打撃は十字軍やモンゴル帝国に匹敵するか、場合によってはそれをも上回るものであり、特にメソポタミア地方は20世紀まで不毛の状態が続いたのである。しかも帝国はティムール自身に殆ど拠っていたから、これが死ぬと分裂してしまった。余談だが、ティムールの5代の孫にあたるバーブルが「第二次ティムール朝」とも言うべきムガル帝国を開く。

尚、グリ・アミール廟にあるティムールの黒石の棺の裏には「私がこの墓から出た時、最も大きな災いが起こる」という言葉が刻印され、棺は開封されることなかった。しかし、1941年6月19日にソ連の調査により初めて開封され、脚の障害などが確認された。その僅か3日後、バルバロッサ作戦(ドイツによるソ連への奇襲)が実行され、これがソ連から見た第二次世界大戦の戦端となった。後に畏怖を抱いたソ連によって蓋が鉛で溶接され、これ以後二度と開封されていない禁断の棺となっている。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

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