かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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エウメネス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
エウメネス 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 5 / 政治力 7 / 知力 10

エウメネスはいかなる事情によってか祖国カルディアを追われてマケドニアに身を寄せ、ピリッポス2世アレクサンドロス3世に書記官として仕えた。その後、アレクサンドロス3世の東征途上、ペルディッカスの後任として騎兵の指揮官に就任。これ以前にも書記官としてだけではなく、軍事面でもかなりの功績を挙げていた。
アレクサンドロス3世の死後開催されたバビロン会議にて、エウメネスはカッパドキアとパフラゴニア地方の太守に指名されるが、この任地にはマケドニアの支配が及んでいなかった為、軍事力をあてにしていたアンティゴノスは出兵を断り、レオンナトスはギリシャで発生していた反マケドニア闘争の鎮圧(ラミア戦争)に向かった為、当時大王の遺児アレクサンドロス4世を擁していた摂政ペルディッカスの支援を受けてこれを制圧。

この頃マケドニア内部ではペルディッカスと大王の遠征中マケドニア本国を守っていたアンティパトロスとが対立を深めており、ペルディッカス派と見られていたエウメネスは、アンティパトロスと共に行動していたクラテロスと対戦することとなった。両者は紀元前321年に小アジア北西部・ヘレスポントスで戦闘を行い、敵のクラテロス・ネオプトレモスの両将を戦死させる。しかしクラテロスはマケドニア人の間で絶大な人気があった為に、殺したエウメネスは栄誉よりも反感を買うこととなる。又、その2日前にはプトレマイオスを攻めてエジプトに遠征中だったペルディッカスが配下の将軍達(ペイトン、アンティゲネス、セレウコス1世)の裏切りによって暗殺されており、後ろ盾を失ったエウメネスは同年のトリパラディソスの軍会で庇う者なく討伐を宣告された。
エウメネスは帝国全軍総司令官として追討の任に就いたアンティゴノスと戦うも、残った他のペルディッカス派の諸将との連携に失敗して追い詰められ、カッパドキアのノラに包囲される。しかし、帝国摂政位に就いていたアンティパトロスが病没し、その地位の後継者に指名された部下のポリュペルコンと我こそが父の後継者たらんとしていたアンティパトロスの子カッサンドロスが対立すると、状況が一転。カッサンドロスがアンティゴノスと手を結んだため、これに対抗する必要があったポリュペルコンがエウメネスに接近したのである。エウメネスはポリュペルコンの支援を受けて、ノラの包囲を抜け出して勢力を盛り返し、メソポタミア地方で大王の親衛隊銀楯隊を含む軍団を掌握した。この軍を率いてエウメネスは再びアンティゴノスと現在のイラン領・パラエタケネで矛を交えたが、引き分けに終わる。

紀元前316年、現在のイラン領のガビエネの戦いでは、味方だったペルシス太守ペウケスタスの怠慢が原因となり敗北。この時エウメネスは戦闘に敗れたものの、軍の損害そのものは未だ致命的ではなかった為、再戦を考えていた(アンティゴノス側の戦死者5000人以上に対し、エウメネス側の戦死者は300人程)。しかし、後方に控えていた輜重隊や兵の家族がアンティゴノスに奪われてしまう。以前からエウメネスに反感を抱いていた銀楯隊の指揮官アンティゲネス等は、エウメネスを引き渡せば家族や荷物を返還するというアンティゴノスの誘いを受けてエウメネスを捕らえ、降伏。身柄を受け取ったアンティゴノスは当初、優秀でありかつ親友でもあったエウメネスを自らの幕下に加えようとしたが、これまで散々エウメネスに辛酸を舐めさせられ、また彼が味方になると自分たちの影が薄くなることを恐れたアンティゴノスの部下の多くがそれに反対し、密かに彼を殺害。アンティゴノスは友のために盛大な葬儀を行い、遺骨はエウメネスの妻子の元へ届けられた。
エウメネスをアンティゴノスに引き渡した者達のその後は恵まれたものではなかった。銀楯隊は僻地へ左遷されてその地で生涯を終え、アンティゲネスは惨たらしいやり方で殺され、ペウケスタスは所領を奪われた。

エウメネスは他のディアドコイのように王家との血縁関係を持っていたわけではなく、貴族の生まれでもなく、ましてやマケドニア人ですらなかった為、勢力基盤が脆弱であった。それゆえ自身の地位を保持する為に王家との結びつきを何よりも必要としていた。女性でありながらアレクサンドロス3世死後の権力争いに身を投じたアレクサンドロス3世の母オリュンピアスは同じ外国人故か彼を信頼し(彼女はエピロス王家からマケドニアに嫁いでいた)、彼を味方に引き込もうとしたり、助言を求めたりしていた。
又、文官出身であるとの理由で彼を軽んじていた将軍も少なからずおり、ヘレスポントスの戦いの直前にエウメネスの援軍として派遣された将軍のアルケタスとネオプトレモスはエウメネスに従うのを嫌がって彼の軍に合流しなかったし、ネオプトレモスは自分達将軍は王に剣で仕えてきたのに、エウメネスはペンで仕えていたと言ってかねてよりあからさまにエウメネスを馬鹿にしていた。そこでエウメネスは配下の指揮官達から意図的に多額の金を借り入れることで自分を裏切れないようにしたり、自分に従おうとしない指揮官を納得させる為、軍議の場にアレクサンドロス大王の椅子を置き、いわば御前会議の形式を採った。しかしそれでも指揮系統を完全に掌握することは出来なかったのである。

ディアドコイ(アレクサンドロス3世の後継者達。すなわちプトレマイオス1世、セレウコス1世、アンティゴノス、アンティパトロス、リュシマコス、エウメネス、ペルディッカス)はエウメネスの力量を高く評価し、彼の生前は誰も王を称することも王家を蔑ろにすることもなかったが、アレクサンドロス3世の子供達のただ一人の擁護者「エウメネス」を亡き者にすると、自分達の真の目的を鮮明にした。ちなみに最初に王を称したのはアンティゴノス・デメトリオス父子で、エウメネスの死の10年後の紀元前306年である。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

トラヤヌス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
トラヤヌス 能力データ
魅力 9 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 8

トラヤヌスはローマ帝国史上最大の版図を現出。イタリア本土出身者でない初の属州生まれの皇帝で、同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝でもあり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。

トラヤヌスは青年期を迎えると軍団への参加を通じて政治的キャリアを築き始め、各地を転戦する日々を送る。ライン川防衛の指揮官であった上ゲルマニア属州総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌスがドミティアヌスに対して反旗を翻すと、その鎮圧で功績をあげる。
96年、ドミティアヌス暗殺によってフラウィウス朝が断絶すると、元老院の支持をまとめた古参貴族の元老院議員ネルウァが皇帝に即位。しかし、子息を持たず高齢であったネルウァが新たな王朝を形成できる可能性は低く、97年に後継者としてトラヤヌスを指名。軍の支持を集めるトラヤヌスの指名を親衛隊に強要され、跳ね除けることができなかったためとされる。トラヤヌスはドミティアヌス時代に不当な理由で投獄されていた囚人を解放し、また同じくドミティアヌスが没収していた私有財産を元の所有者に返還。これらの政策はネルウァ時代から既に行われていたが、トラヤヌスもドミティアヌスの治世を否定する路線を継承。ドミティアヌスと敵対した元老院からも絶賛され、「オプティムス」(至高の)という名誉称号を与えられる。

トラヤヌスの名声は二度にわたる歴史的な戦勝によって記憶されているが、その片方がダキア地方への遠征と併合である。以前から土着住民の国家であるダキア王国の属国化が試みられていたが、ローマ側はドミティアヌス時代にダキア王デケバルスの軍勢に大敗を喫し、最終的に賠償金を支払って撤退するという屈辱的な和平を結ばされた経験があった。それ以来、勢いを得たダキア王国は勢力を拡大し続け、逆にローマ側の領土を侵略するまでに至っていた。トラヤヌスはダキア王国へ親征し、決着を付けることを決意。
101年、一度目の遠征で3~5月にかけてダキア軍との緒戦に勝利して、トラヤヌスと遠征軍はダキア領内に橋頭堡を形成。続いてドナウ川を渡河するとタパエに陣を敷いていたダキア軍と大規模な会戦が発生(第二次タパエの戦い )。戦いは途中でダキア軍が撤収したことで遠征軍の勝利となり、翌年の戦いを経てダキア王デケバルスはトラヤヌスに降伏。勝利によってローマに凱旋したトラヤヌスは、元老院から「ダキクス・マキシムス」(最大のダキア征服者)の称号を与えられ、トラヤヌスのトロフィーが建設された。
しかし解放されたデケバルスは反乱軍を組織して立ち上がり、ローマ領へ侵攻。トラヤヌスは南ダキアに再度親政し、第二次ダキア戦争は激しい攻防戦の末にダキア王国の都サルミゼゲトゥサ・レギアが陥落して終結。デケバルスは逃亡したものの追い詰められた末に自害に及び、遺体から切り落とされた首が元老院議場の前に晒された。戦後、「ダキア属州」となった旧ダキア王国領には大規模な植民行為が行われ、併せてドナウ川防衛の要である鉄門付近の強化も実施、トラヤヌス橋は当時最高水準の建築技術を駆使して建設されている。また鉄門を中心とした運河の整備も行われた。ダキアの金鉱開発はローマ帝国にとっての新しい財源として国を富ませ、ローマ市では勝利を祝ってトロフィーに続いて記念柱(トラヤヌスの記念柱)が建設された。
107年からの7年間、トラヤヌスは新たに公共建造物、記念碑などを建設したが、とりわけローマ市内の記念柱とトラヤヌスのフォルム、そしてトラヤヌスの市場の他、各地に凱旋門を設置。トラヤヌス街道や新トラヤヌス街道などのインフラ整備にも努めた。経済政策ではデナリウス銀貨の切り下げを行い、銀の含有量を93.5%から89%に下げ、大量のデナリウス銀貨を鋳造。娯楽面では3ヶ月間にわたって大規模な剣闘技大会をコロッセウムで開催して500万人の観客を動員、1万1000名の奴隷が殺害されたと伝えられる。

晩年となる113年、トラヤヌスは新たな戦争に乗り出す。東の大国パルティアのオスロエス1世が両国の緩衝地帯であるアルメニア王国に傀儡君主パルタマシリスを立てると、トラヤヌスはこれを自身の即位15周年記念祭への侮辱行為とする。113年中にハドリアヌスによってアンティオキアで編成された遠征軍3個軍団は、114年の春を待って進軍を開始。道中、経由した駐屯地の軍団等と合流し計17個軍団、総兵力約8万の軍容で大きな問題も無くアルメニア領内に進入、トラヤヌスは西部の都市エレゲイアにてパルタマシリスの退位とともに「アルメニア属州」の樹立を宣言。パルタマシリスがローマへの護送中に暗殺される一方、トラヤヌスはアルメニア全土の制圧を指示。114年末までに各地の要衝が押さえられ、ローマ帝国の支配下に入った。並行して黒海近辺の諸勢力との交渉や調整も行われ、既に元老院より贈られていた「パルティクス」(パルティアの征服者)の称号もこの頃から名乗るようになる。
遂にペルシア湾に到達したトラヤヌスは、湾岸周辺を治めるカラケネ王国のカラクス・スパシヌ王と手を結ぶ。カラクス・スパシヌはローマの元老院へ送った書状の中で「彼がインドに向かったアレクサンドロス3世よりも年老いていることだけは残念に思う」と評している。しかしながらトラヤヌスの遠征事業はペルシア湾周辺で切り上げられ、本国へと帰還を開始。

しかし、直後の117年から征服地で反乱が相次ぐ。部分的には鎮圧に成功したが反乱は収まらず、メソポタミアの維持が困難となったローマ軍は大きく後退し、ドゥラ・エウロポスなどの115年に占領した地域の一部まで失う。トラヤヌスはアンティオキアまで退き、再度メソポタミアへ攻勢に出る計画を策定し始めたが、健康状態が悪化したためそれも実現不可能となった。病状が悪化し続けたトラヤヌスはイタリア本土へ戻ろうと海軍を呼び寄せたが、その間にも痩せ衰えていった。8月9日、キリキア属州のセリヌスに到着した直後に病死。本国で後継者や遺言を残す前に死んだことから後継者争いが危惧されたが、トラヤヌスはハドリアヌスを後継者に指名したと皇后ポンペイアが証言した。ハドリアヌスが皇帝に即位した。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ウィリアム・テル


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
ウィリアム・テル 能力データ
魅力 6 / 統率力 4 / 戦闘力 8 / 政治力 2 / 知力 4

ウィリアム・テルは、14世紀初頭にスイス中央部のウーリに住んだとされる伝説の英雄。スイスのみならず世界的に有名で、日本でも弓の名手として知られている。
当時ハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝アドルフの時代に強い自治権を獲得していたウーリの支配を強めようとしていた。ヘルマン・ゲスラー(ウーリのアルトドルフにやってきたオーストリア人代官)は、その中央広場にポールを立てて自身の帽子を掛け、その前を通る者は帽子に頭を下げてお辞儀するように強制した。しかし、ウィリアム・テルは帽子に頭を下げなかったために逮捕され、罰を受ける事になる。ゲスラーはクロスボウの名手であるウィリアム・テルが、息子の頭の上に置いた林檎を見事に射抜く事ができれば彼を自由の身にすると約束。結果、クロスボウから矢を放ち、一発で見事に林檎を射抜いた。しかし矢をもう一本持っていた事を咎められ、「もし失敗したならば、この矢でお前を射抜いて殺してやろうと思っていた」と答え、ゲスラーは怒り狂う。
ウィリアム・テルは連行されるがゲスラーの手を逃れ、その後姿をくらましつつゲスラーを陰から狙撃し射殺。町へ戻った彼は英雄として迎えられ、この事件は反乱の口火を切り、スイスの独立に結びついた。

スイス人はウィリアム・テルが好きで、彼や息子は様々な絵やイラストになり、スイスを象徴するモチーフとして使われることが多いし、矢の突き刺さった林檎も同様にモチーフとして使われている。スイスの紙幣、硬貨、郵便切手にも当然のように登場し、1918~1925年に発行された100スイスフラン紙幣やその後発行された5フラン紙幣にはウィリアム・テルの肖像が描かれていた他、1954年から発行された第5次銀行券の最高額面1,000フランの裏面には地模様に矢の突き刺さった林檎が描かれた。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

アグリッパ


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
アグリッパ 能力データ
魅力 8 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 6 / 知力 7

アグリッパは早いうちから軍務に就き、ローマ内戦ではカエサル派に属して元老院派と戦った。この時、兄ルキウスは元老院派に属してマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスの下で戦っていたが、タプススの戦いで元老院派が敗北すると兄は捕虜として牢獄に入れられた。しかし友人オクタウィアヌスの配慮で釈放されたと言う。彼の働きはカエサルの目に留まり、紀元前45年オクタウィアヌスと引き合わる。ここでアグリッパとオクタウィアヌスは同年代でもあったので、同様な教育を受け親しい友人となる。そしてカエサルがローマで次々と政策を挙げて行く中で、アグリッパとオクタウィアヌスはともにギリシアのアポッロニアに遊学する事になった。そして彼らがギリシアに旅立って4ヶ月が過ぎた紀元前44年3月15日、カエサルが暗殺された。
この時アグリッパはもう一人の友人クィントゥス・サルウィディエヌス・ルフスと同様、マケドニア属州の軍団を率いてローマへと進軍するように促したが、オクタウィアヌスは小部隊のみ率いてローマへと赴く。そしてオクタウィアヌスがカエサルの後継者となったことを知らされる。こうしてアグリッパは友人オクタウィアヌスの腹心として政治の表舞台に立つことになった。そして軍才のないオクタウィアヌスの代理、実質的な最高司令官として内乱を戦い、紀元前36年のナウロクス沖の海戦ではオクタウィアヌスの海軍を指揮しセクストゥス・ポンペイウス軍に勝利。紀元前31年のアクティウムの海戦ではマルクス・アントニウス派およびプトレマイオス朝連合軍を破り、勝利へ導いた。

帝政樹立を進める中、アグリッパはアウグストゥスの同僚執政官を連続して勤めた。共和制正規の官職の中で元老院議員達に気付かれないように権力を集中していくには、絶対の信頼を置くアグリッパと共に進めることが不可欠であった。
病弱なアウグストゥスとしては、自分の後継者として病気知らずのアグリッパを中継ぎにし、その後アグリッパの子である自分の孫たちに帝位を継承させようとしていたと思われる。しかし皮肉にも病弱だったアウグストゥスが長命し、一方アグリッパや孫たちは次々に逝去し、アウグストゥスは血のつながりのないティベリウスを養子にせざるを得なかった。

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アウグストゥス


Category: イタリア・ギリシャ・スイス
アウグストゥス 能力データ
魅力 9 / 統率力 6 / 戦闘力 5 / 政治力 8 / 知力 9

アウグストゥス(オクタウィアヌス)は紀元前44年、養父カエサルが暗殺された為に急遽ローマへ帰還。その途中のリピアエでカエサルが自分を後継者に指名していた事を知る。これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったオクタウィアヌスは、一躍有名になった。だが、オクタウィアヌスがローマに戻った時点でこの年カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれており、カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により国外に退去、ギリシアやガリア・キサルピナ属州を支配下に抑えていた。
次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせる。同年9月にはアントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し、協力関係となる。オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを弾劾、次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき窮地に陥った。
ただ、元老院は台頭するオクタウィアヌスを恐れてデキムス・ブルトゥスに近づいた為に、これに反発したオクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍。さしたる抵抗も無くローマに入城したオクタウィアヌスは、親戚であるクィントゥス・ペディウスとともに改めて執政官に選ばれる。紀元前43年、ボローニャにおいてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第二回三頭政治が成立。この同盟関係は密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ第一回三頭政治と異なり、公然としたものであった。

紀元前42年、元老院はカエサルの神格化を決定、「神君ユリウス」となる。これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強めた。一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになる。
今や同盟関係となったオクタウィアヌスはアントニウスとともに28個もの軍団を率いてマケドニア属州に進攻、親友であり側近のアグリッパと共に転戦した。オクタウィアヌスがアグリッパと並ぶ片腕であるガイウス・マエケナスを見出したのはこの時期で、軍事のアグリッパに対しマエケナスは内乱期の外交交渉に活躍。
戦後、再び三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キサルピナからエジプトへ移った。ここでカエサルの愛人であったプトレマイオス朝女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンと出会う。レピドゥスはアフリカへと赴任する。そしてイタリア本国に留まる事になったオクタウィアヌスだったが、迅速に解決すべき問題に迫られる。
一方でアントニウスはエジプト滞在中にクレオパトラと関係を深め、後に2人の間にはアレクサンデル・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・ピラデルプスが生まれる。オクタウィアヌスはアントニウスとの盟約を確固とするために姉である小オクタウィアと妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。後にこの2人の間には大アントニアと小アントニアが生まれる。こうして共和政ローマは東のアントニウス、西のオクタウィアヌスと2分され、カエサル暗殺時に18歳だった無名の青年はローマの半分を支配する人物となっていた。

アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移すが結果は惨敗、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。だが、クレオパトラは彼の軍隊を再建できるほどの財力を持っており、これを好機として妻オクタウィアを一方的に離縁。アントニウス配下のローマ軍がアルメニア王国を攻撃、国王アルタウァスデス2世を捕虜とし、アントニウスはアルメニア遠征の成功によりアレキサンドリアで凱旋式を行ってクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据えたほか、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けた。オクタウィアヌスはこれを政治的に利用して、民衆および元老院を扇動。アントニウスをローマ社会から孤立させることに成功する。
紀元前33年1月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出。元老院もアントニウスを見限り、紀元前32年末にクレオパトラのプトレマイオス朝に宣戦布告した。オクタウィアヌス軍はアグリッパの指揮の下、狭い海峡でアントニウス・クレオパトラ軍と激突。この戦いに当時世界最大の海軍を保有していたアントニウスとクレオパトラの軍に対し、オクタウィアヌス軍の実質的な指揮官であるアグリッパは、アクティウムの海戦でこれに勝利。アントニウスとクレオパトラはエジプトのアレクサンドリアへ逃れるも、その後を追撃されアントニウスは自害、直後にクレオパトラも自害したためにここにプトレマイオス朝は滅亡した。こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。

ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院のプリンケプス(元老院内での第一人者を表す称号。かつてはクィントゥス・ファビウス・マクシムスやスキピオ・アフリカヌスがそうであった)となり、帝政下では全てのローマ市民の中で第1の地位を占める「元首=皇帝」を指すようになった。
こうしてオクタウィアヌスは、カエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、アントニウスらとの権力闘争を勝ち抜いて、彼の権力を妨げる勢力を全て排除することに成功。時間はかかったものの、オクタウィアヌスは地中海世界を統一し、カエサルの後継者に相応しいことを実力で証明し、名実共に「インペラトル」となった。
そして、共和制復帰宣言からわずか3日後、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請。オクタウィアヌスは数度に渡り辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥスと名乗るようになる。初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後期帝政(ドミナートゥス)と区別して「元首政」と呼ばれている。

紀元前12年にはアグリッパ、紀元前8年にマエケナスと相次いで長らくの腹心が死去。
紀元2年、元老院より「国家の父」の称号が贈られて権威を確立し、権力が磐石になると後継者問題に取り組んだ。
紀元14年8月、アウグストゥスは急に体調不良になりナポリで肺炎が原因で76歳で死去。遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、神格化された後にカレンダーにAugustus=August、つまり8月と記された。そして暗殺されたユリウス・カエサルつまりJulius=Julyには7月が神格化されカレンダーに記されたことは有名な話である。カレンダーに記されている1月から8月までの名前は全て神として古代に崇められた人物の名である。それ程偉大な人物の死であった。

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かんたん世界歴史人物評は管理人の主観による人物伝です。中国史は別サイトを見ていただくとして、それ以外の世界の歴史人物を出来るだけ沢山採り上げていきます。

 
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