かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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ヴィラール


Category: アイルランド・イギリス・フランス
ヴィラール 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

ヴィラールはフランス史上6人しかいない大元帥の1人。
1671年からフランス軍に入隊、オランダ侵略戦争におけるマーストリヒト包囲戦で奮戦したことが注目され、騎兵隊長に任命される。翌1674年にコンデ公ルイ2世の軍に配属されスネッフの戦いに参加、以後もテュレンヌ子爵、リュクサンブール公の下で経験を積み、終戦後はバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの元へ派遣され、大トルコ戦争でマクシミリアン2世と共にオスマン帝国と戦った。
1701年にスペイン継承戦争が始まるとヴィラールはフランスへ呼び戻され、ニコラ・カティナの部下としてイタリア、ドイツ戦線を転戦。1702年からカティナと共にライン川左岸のストラスブールに駐屯、神聖ローマ帝国の司令官・バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと対峙したが、ドナウ川でマクシミリアン2世がフランス側に就いて挙兵するとヴィラールも攻勢に移り、ライン川を大きく南下してスイス国境沿いのフリートリンゲン付近で渡河、フリートリンゲンの戦いで帝国軍を破る。被害が大きかったため11月に左岸に引き上げたが、功績を認められ元帥に昇進、引退したカティナの後任としてライン川戦線を受け持つことになる。
翌1703年にもドナウ川のマクシミリアン2世との合流を計画、ライン川右岸のケールを落として橋頭堡を築き(ケール包囲戦)、東進して5月にドナウ川沿岸のリートリンゲンでバイエルン軍と合流して帝国に衝撃を与える。9月20日にヘヒシュテットの戦いで帝国軍に勝利してアウクスブルクも落とし、ウィーンに迫る勢いであった。ところがアウクスブルク陥落前にフランスに召還され、フランス国内の反乱(カミザールの乱)鎮圧に回される。原因はマクシミリアン2世との対立にあり、ヴィラールはすぐにウィーンを落とすべきと主張していたのに対し、マクシミリアン2世はバイエルン周辺の領土拡大を狙ってヴィラールと衝突。フランス王ルイ14世も数少ない同盟国バイエルンの機嫌を損ねることを恐れヴィラール召還に踏み切り、マルサンをヴィラールの代わりにドナウ川に派遣。
1704年にタラールもドナウ川に進んだが、オランダからイングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルがルートヴィヒ・ヴィルヘルムおよびプリンツ・オイゲンと合流、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍はイングランド・オーストリア同盟軍に大敗、バイエルンは占領されマクシミリアン2世はネーデルラントへ逃亡、タラールは捕虜となりマルサンはストラスブールへ後退、ドナウ川流域の勢力は消滅してライン川戦線も危うくなる。ヴィラールはカミザールの乱鎮圧後の1705年に公爵に叙任、ライン川の司令官に再任され(マルサンはネーデルラントへ異動)、ライン川から北のモーゼル川で陣地を固めマールバラ公の再度のドイツ進出を防ぐ。1707年にシュトルホーフェンを突破、一時はヴュルテンベルクにまで進出するなどドイツにおける脅威であり続けた。しかし、1708年にライン川方面に回されたマクシミリアン2世と再度対立、フランス政府の意向でフランス南部のドーフィネへ異動させられる。ここでは同盟軍の進出を阻んだが、ネーデルラントはアウデナールデの戦いでブルゴーニュ公ルイとヴァンドーム公がマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に敗北、リール包囲戦でも有効な手立てが取れずフランス北部の要塞リールを落とされ、フランスは追い詰められていった。

1709年、同盟から提案された和睦を拒絶したルイ14世は、危機的状況でヴィラールをネーデルラント方面司令官に登用。ヴィラールも全力を尽くして兵をかき集め、フランス防衛線を構築して同盟軍を待ち構えた。対する同盟軍は防衛線の突破を狙いモンスを包囲、ヴィラールは直ちにモンスへ急行、ブーフレールと合流し、南方のマルプラケにある森を堅固な要塞に作り変えて同盟軍を迎え撃った(マルプラケの戦い)。ヴィラールは戦闘中に左足を負傷して後方へ運ばれたためブーフレールに交代、フランス軍は敗北しモンスも陥落したが、熾烈な抵抗の甲斐があって勝利した同盟軍にフランス軍の倍の被害を与え、同盟が突きつけた強硬な和睦路線の拒絶へと大きく前進させた。また、この戦いでの大きな損害でイギリスに政争が吹き荒れ、同盟も次第に態度を軟化していく。
1712年になるとイギリスがフランスと休戦に合意し、オーモンドがイギリス軍を引き上げさせたため同盟軍は劣勢となり、ヴィラールはドゥナを落として補給路も断ち同盟軍を後退させる(ドゥナの戦い)。この勝利で勢いを得たヴィラールは奪われたフランス都市を次々と奪還、オーストリア・オランダへの講和に持ち込んだ。1713年から1714年にかけてオイゲンと和睦交渉を行い、折衝の末に1714年3月6日にラシュタット条約を締結させる。

ヴィラールはルイ15世の下で歴戦の武将として重用され、翌1715年から1718年まで陸軍大臣を務め、1733年にフランス大元帥に任命されるなど重職を歴任。同年のポーランド継承戦争にも出陣、イタリア戦線でオイゲンと対峙したが、高齢のためトリノで病気にかかり、翌1734年に81歳で死去。ヴィラールが創設したヴィラール公爵位は息子のアルマンが継承。アカデミー・フランセーズの席次もアルマンに引き継がれた。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

シャルル・ド・ゴントー


Category: アイルランド・イギリス・フランス
シャルル・ド・ゴントー 能力データ
魅力 5 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 4

シャルル・ド・ゴントーはフランス史上6人しかいない大元帥の1人。
1562年にアルマン・ド・ゴントーの息子としてサン=ブランシャールに生まれ、ペリゴール地方のビロンにあった一族の城で教育を受けた。やがて元帥であった父の指揮下で初陣を飾り、忠実さと勇猛さとをもって長きにわたりアンリ4世に仕える。1590年に旅団長となるとアルクの戦い、イヴリーの戦い、パリ攻囲戦、ルーアン攻囲戦、オマールの戦い等で次々と戦果を挙げる。王はその功績を称え、彼をフランスとブルターニュの提督、そしてフランス元帥、次にブルゴーニュ総督、公爵・廷臣に相次いで任命、イングランド女王エリザベス1世の元へは大使として派遣する。

だが、王はフォンテーヌ=フランセーズの戦いではシャルル・ド・ゴントーの命を助けていたにもかかわらず、彼は王に対する陰謀を企ててスペインやサヴォイア公国と手を結び、故国に刃を向けようと準備を始める。サヴォイア公はアンリ4世に向けて貴族達が叛乱を起こすのと引き換えに三女をビロン公シャルル・ド・ゴントーに娶せることを提案、またその叛乱の中でビロン公シャルル・ド・ゴントーはブルゴーニュとフランシュ=コンテに君臨することになっていた。しかし陰謀はその問題を調査していたラファンによって暴かれる。ビロン公シャルル・ド・ゴントーは一切を否認しようとするも、彼の残していた書付がそれを台無しにする。アンリ4世はリヨンで一度彼を許し、その後も何度も許そうとしたのだが、その度に新しい罪状の証拠と彼の懺悔が繰り返され、無駄になる。その為、シャルル・ド・ゴントーは1602年6月13~14日にかけての夜フォンテーヌブローで逮捕される。7月13日にはしっかり護衛されたラファンがパリに到着、14日にはビロン公シャルル・ド・ゴントーが告発者の前に引き立てられる。17日には大逆罪の審理が高等法院の判事達の手で行われ、27日には審理への参加を拒否していた廷臣たちが欠席する中でビロン公自身が出廷。29日にビロン公シャルル・ド・ゴントーの大逆罪に対して死刑が言い渡され、1602年7月31日に収監されていたバスチーユ内で斬首。

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テュレンヌ


Category: アイルランド・イギリス・フランス
テュレンヌ 能力データ
魅力 10 / 統率力 9 / 戦闘力 6 / 政治力 3 / 知力 8

ルイ13~14世治世に活躍したフランス戦史に残る名将テュレンヌをナポレオン・ボナパルトは「フランス最高の将軍」と評価、セント・ヘレナ島では「もし私にテュレンヌのような男がいたなら、世界の覇者になっていただろう」と語っている。
プロテスタントの名門貴族に生まれたテュレンヌは19歳で大佐、24歳で少将、32歳で元帥とめざましく昇進。ルイ13世の死後に一時的にフロンドの乱に加わって幼少のルイ14世に楯突いたこともあったが直ぐ国王側に転じて国王軍の先頭に立って大貴族の反乱鎮圧にあたった。
砂丘の戦いでスペイン軍に大勝した後、テュレンヌはルイ14世によってフランス史上6人しかいない総元帥(大元帥)に任じられる。彼の生涯で最も素晴らしい戦いは、オランダ戦争中のアルザス戦役で、冬の真っ只中にヴォージュ山脈を迂回するという大胆な機動作戦で神聖ローマ皇帝軍の虚を突き、皇帝軍をライン川の彼方に追いやった。このアルザス戦役の七ヵ月後、ザスバッハの戦いで勝利を得ながらも砲弾にあたって戦死。テュレンヌの死にフランス中が悲しみに包まれたという。

テュレンヌはルイ14世の特命によって、デュ・ゲクランと同じくサン・ドゥニ教会に埋葬されるという特別待遇を受けたが、1800年に遺骸はパリのアンヴァリッドに移された。ナポレオン・ボナパルトの遺骸も1840年にセント・ヘレナ島からアンヴァリッドに運ばれてきたので、ナポレオン・ボナパルトはお気に入りの将軍と同じ場所で眠ることになったのである。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ナポレオン・ボナパルト


Category: アイルランド・イギリス・フランス
ナポレオン・ボナパルト 能力データ
魅力 8 / 統率力 10 / 戦闘力 6 / 政治力 8 / 知力 7

ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島において、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学して数学で抜群の成績をおさめ1784年にパリの陸軍士官学校に入学すると、専門として伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく砲兵科を選択。大砲を使った戦術は後の彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを僅か11ヶ月で必要な課程を修了したことを考えればむしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。

やがてフランス革命が勃発し、フランス軍のなかでも王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属してトゥーロン攻囲戦に参加。前任者の負傷により、砲兵司令官となって少佐に昇格。まず港を見下ろす二つの高地を奪取、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにするという作戦を進言して豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン・ボナパルト自身は足を負傷したが、この功績により国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に准将(旅団長)へと昇進、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられる。
1795年、パリにおいてヴァンデミエールの反乱が起こると、国民公会軍司令官となったポール・バラスは知り合いのナポレオン・ボナパルトを副官として登用。実際の鎮圧作戦をこの副官にほぼ一任した結果、首都の市街地で市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功。これによってナポレオン・ボナパルトは将軍に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、ヴァンデミエール将軍の異名をとった。
1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオン・ボナパルトはイタリア方面軍の司令官に抜擢される。ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝。ウィーンへと迫り、オーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結ぶ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得していくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオン・ボナパルトは熱狂的な歓迎をもって迎えられる。

オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対してはフランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオン・ボナパルトは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言。
1798年、ナポレオン軍はエジプトに上陸、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまう。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥る。これを知ったナポレオン・ボナパルトは、自軍はエジプトに残したまま側近のみをつれ単身フランス本土へ舞い戻った。フランスの民衆はナポレオン・ボナパルトの到着を歓喜をもって迎え、11月、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立し自ら第一執政となって実質的に独裁権を握る。

統領政府の第一執政となり、政権の座に着いたナポレオンであるが内外に問題は山積していた。まずイタリアの再獲得を目指し、ナポレオン・ボナパルトはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策を採る。緒戦は大勝したが苦戦を強いられ、マレンゴの戦いにおいて何とかオーストリア軍に劇的に勝利。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝。オーストリアはライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、1802年にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオン・ボナパルトは内政面でも諸改革を断行。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定を図り、1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布。教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定、交通網の整備を精力的に推進した。フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオン・ボナパルトは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍隊や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。

1804年12月2日、ナポレオン・ボナパルトは即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就く(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面にさまざまな衝撃を与えた。1805年、イギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結。イギリスはこれに対してオーストリア、ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗し、イギリス上陸作戦は失敗に終わる。海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア、ロシア軍はアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突(三帝会戦)。ナポレオン・ボナパルトは巧妙な作戦で完勝し、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲等が取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没する。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものである。
戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス、プロイセンと手を組み、第四次対仏大同盟を結成。これに対しナポレオン・ボナパルトは、10月のイエナの戦い、アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。
並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出してロシア、プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだが、これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。

ナポレオン・ボナパルトは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン、ロシアの連合軍に戦いを挑むが、アイラウの戦いとハイルスベルクの戦いは、猛雪や情報漏れにより苦戦、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまい、更に多額の賠償金を支払わせることとした。こうして、ナポレオン・ボナパルトの勢力はイギリス、スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧、イタリア、ドイツ、ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア、プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃が彼の絶頂期と評される。

その後、スペイン独立戦争で蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦を強いられ、デュポン将軍率いるフランス軍が降伏(皇帝に即位して以来、陸上での最初の敗北)。彼がスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは再起し、イギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成。4月のエックミュールの戦いではナポレオン・ボナパルトが勝利し、5月には2度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでオーストリア軍に敗れ、続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオン・ボナパルトは勝利。オーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。
この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚。1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、この乳児をローマ王の地位に就けた。

1810年にロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開したのに対し、ロシア遠征を決行(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。フランスは同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入(1812年ロシア戦役)、兵站を軽視したため、広大な国土を活用したロシア軍による徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落者を出した。更にモスクワをも大火で焦土とされたため、ナポレオン軍は総退却となった。冬将軍と呼ばれるロシアの厳しい気象条件も重なり、数十万のフランス兵が失われ、無事に本国まで帰還してこられたものは僅か5千。それに加え、パリではクーデター未遂が起こされた(首謀者マレー将軍は後に銃殺)。
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を採り、第六次対仏大同盟を結成。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された新米で訓練不足のフランス若年兵だったが、それでもナポレオン・ボナパルトはプロイセン、ロシア等の同盟軍と、リュッツェンの戦い、バウツェンの戦いに勝って休戦に持ち込む。だが、10月のライプツィヒの戦いでナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。
1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。フランスの北東にはオーストリア、プロイセン軍25万、北西にはスウェーデン軍16万、南方ではイギリス軍10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオン・ボナパルトはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられる。3月31日には首都パリが陥落、外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、フォンテーヌブロー条約の締結の後、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。

ナポレオン・ボナパルト失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。更にフランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買い、ナポレオン・ボナパルトはエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げる。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス、プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗して復位(百日天下。実際は95日)は幕を閉じることとなる。彼はアメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降。南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉された。
実質的な監禁生活の中でもナポレオン・ボナパルトは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残すが、病状は進行して1821年に死去。遺体は遺言により解剖され、死因としては当時公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘されている。その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

バイヤール


Category: アイルランド・イギリス・フランス
バイヤール 能力データ
魅力 9 / 統率力 7 / 戦闘力 8 / 政治力 4 / 知力 6

フランスでルネサンスが始まろうとしていた頃、ルイ11世に続くシャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世はイタリアの煌びやかな文化と商業的繁栄に惹かれて何度となくイタリア遠征を繰り返した。イタリアの夢にとらわれたこの三代の国王に仕えたバイヤールは「恐れ知らずにして非難の余地なき騎士」と呼ばれ、騎士の理想とされた人物である。
バイヤールは20歳前後でイタリアにて初陣を飾って以来、30年間ほとんど毎年のようにイタリアへ出陣し、戦場にかかるガリグリアーノ橋を守る為にたった一人で200人の敵と戦う等、数々のめざましい手柄を立てた。彼はまず何よりも軍人としての名誉を重んじ、人間的にも非常に優れた人物で、戦場では勇猛果敢に戦うが一旦勝利を収めた後は敗れた敵に対して寛大であり、貧しい人々にも優しかった。全イタリア戦争を通じて最高の勝利と言われるマリニャーノの戦いでバイヤールが決定的な働きをした後、フランソワ1世は彼の手で騎士に叙されることを望んだ。

バイヤールは敵方の将兵からさえ尊敬され、イタリアの戦野で弩にうたれて戦死した時、味方ばかりでなく居合わせた敵の兵士達も死を悼んで涙を流すという奇妙な光景が現出する。イアリア遠征軍の最高司令官であったガストン・ド・フォアがかすんでしまうほどにバイヤールの評判が高い国民的英雄になったのは、非難の余地なき武将でもあったからであろう。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

03 2017
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プロフィール

ただの世界史好き

Author:ただの世界史好き
かんたん世界歴史人物評は管理人の主観による人物伝です。中国史は別サイトを見ていただくとして、それ以外の世界の歴史人物を出来るだけ沢山採り上げていきます。

 
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