かんたん世界歴史人物評

世界史(中国史を除く)に登場する様々な人物を完全主観で評価。かんたんに世界の歴史人物をチェック!

 

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ヴィラール


Category: アイルランド・イギリス・フランス
ヴィラール 能力データ
魅力 6 / 統率力 8 / 戦闘力 6 / 政治力 5 / 知力 6

ヴィラールはフランス史上6人しかいない大元帥の1人。
1671年からフランス軍に入隊、オランダ侵略戦争におけるマーストリヒト包囲戦で奮戦したことが注目され、騎兵隊長に任命される。翌1674年にコンデ公ルイ2世の軍に配属されスネッフの戦いに参加、以後もテュレンヌ子爵、リュクサンブール公の下で経験を積み、終戦後はバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの元へ派遣され、大トルコ戦争でマクシミリアン2世と共にオスマン帝国と戦った。
1701年にスペイン継承戦争が始まるとヴィラールはフランスへ呼び戻され、ニコラ・カティナの部下としてイタリア、ドイツ戦線を転戦。1702年からカティナと共にライン川左岸のストラスブールに駐屯、神聖ローマ帝国の司令官・バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと対峙したが、ドナウ川でマクシミリアン2世がフランス側に就いて挙兵するとヴィラールも攻勢に移り、ライン川を大きく南下してスイス国境沿いのフリートリンゲン付近で渡河、フリートリンゲンの戦いで帝国軍を破る。被害が大きかったため11月に左岸に引き上げたが、功績を認められ元帥に昇進、引退したカティナの後任としてライン川戦線を受け持つことになる。
翌1703年にもドナウ川のマクシミリアン2世との合流を計画、ライン川右岸のケールを落として橋頭堡を築き(ケール包囲戦)、東進して5月にドナウ川沿岸のリートリンゲンでバイエルン軍と合流して帝国に衝撃を与える。9月20日にヘヒシュテットの戦いで帝国軍に勝利してアウクスブルクも落とし、ウィーンに迫る勢いであった。ところがアウクスブルク陥落前にフランスに召還され、フランス国内の反乱(カミザールの乱)鎮圧に回される。原因はマクシミリアン2世との対立にあり、ヴィラールはすぐにウィーンを落とすべきと主張していたのに対し、マクシミリアン2世はバイエルン周辺の領土拡大を狙ってヴィラールと衝突。フランス王ルイ14世も数少ない同盟国バイエルンの機嫌を損ねることを恐れヴィラール召還に踏み切り、マルサンをヴィラールの代わりにドナウ川に派遣。
1704年にタラールもドナウ川に進んだが、オランダからイングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルがルートヴィヒ・ヴィルヘルムおよびプリンツ・オイゲンと合流、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍はイングランド・オーストリア同盟軍に大敗、バイエルンは占領されマクシミリアン2世はネーデルラントへ逃亡、タラールは捕虜となりマルサンはストラスブールへ後退、ドナウ川流域の勢力は消滅してライン川戦線も危うくなる。ヴィラールはカミザールの乱鎮圧後の1705年に公爵に叙任、ライン川の司令官に再任され(マルサンはネーデルラントへ異動)、ライン川から北のモーゼル川で陣地を固めマールバラ公の再度のドイツ進出を防ぐ。1707年にシュトルホーフェンを突破、一時はヴュルテンベルクにまで進出するなどドイツにおける脅威であり続けた。しかし、1708年にライン川方面に回されたマクシミリアン2世と再度対立、フランス政府の意向でフランス南部のドーフィネへ異動させられる。ここでは同盟軍の進出を阻んだが、ネーデルラントはアウデナールデの戦いでブルゴーニュ公ルイとヴァンドーム公がマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に敗北、リール包囲戦でも有効な手立てが取れずフランス北部の要塞リールを落とされ、フランスは追い詰められていった。

1709年、同盟から提案された和睦を拒絶したルイ14世は、危機的状況でヴィラールをネーデルラント方面司令官に登用。ヴィラールも全力を尽くして兵をかき集め、フランス防衛線を構築して同盟軍を待ち構えた。対する同盟軍は防衛線の突破を狙いモンスを包囲、ヴィラールは直ちにモンスへ急行、ブーフレールと合流し、南方のマルプラケにある森を堅固な要塞に作り変えて同盟軍を迎え撃った(マルプラケの戦い)。ヴィラールは戦闘中に左足を負傷して後方へ運ばれたためブーフレールに交代、フランス軍は敗北しモンスも陥落したが、熾烈な抵抗の甲斐があって勝利した同盟軍にフランス軍の倍の被害を与え、同盟が突きつけた強硬な和睦路線の拒絶へと大きく前進させた。また、この戦いでの大きな損害でイギリスに政争が吹き荒れ、同盟も次第に態度を軟化していく。
1712年になるとイギリスがフランスと休戦に合意し、オーモンドがイギリス軍を引き上げさせたため同盟軍は劣勢となり、ヴィラールはドゥナを落として補給路も断ち同盟軍を後退させる(ドゥナの戦い)。この勝利で勢いを得たヴィラールは奪われたフランス都市を次々と奪還、オーストリア・オランダへの講和に持ち込んだ。1713年から1714年にかけてオイゲンと和睦交渉を行い、折衝の末に1714年3月6日にラシュタット条約を締結させる。

ヴィラールはルイ15世の下で歴戦の武将として重用され、翌1715年から1718年まで陸軍大臣を務め、1733年にフランス大元帥に任命されるなど重職を歴任。同年のポーランド継承戦争にも出陣、イタリア戦線でオイゲンと対峙したが、高齢のためトリノで病気にかかり、翌1734年に81歳で死去。ヴィラールが創設したヴィラール公爵位は息子のアルマンが継承。アカデミー・フランセーズの席次もアルマンに引き継がれた。

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テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

シャルル・ド・ゴントー


Category: アイルランド・イギリス・フランス
シャルル・ド・ゴントー 能力データ
魅力 5 / 統率力 8 / 戦闘力 7 / 政治力 3 / 知力 4

シャルル・ド・ゴントーはフランス史上6人しかいない大元帥の1人。
1562年にアルマン・ド・ゴントーの息子としてサン=ブランシャールに生まれ、ペリゴール地方のビロンにあった一族の城で教育を受けた。やがて元帥であった父の指揮下で初陣を飾り、忠実さと勇猛さとをもって長きにわたりアンリ4世に仕える。1590年に旅団長となるとアルクの戦い、イヴリーの戦い、パリ攻囲戦、ルーアン攻囲戦、オマールの戦い等で次々と戦果を挙げる。王はその功績を称え、彼をフランスとブルターニュの提督、そしてフランス元帥、次にブルゴーニュ総督、公爵・廷臣に相次いで任命、イングランド女王エリザベス1世の元へは大使として派遣する。

だが、王はフォンテーヌ=フランセーズの戦いではシャルル・ド・ゴントーの命を助けていたにもかかわらず、彼は王に対する陰謀を企ててスペインやサヴォイア公国と手を結び、故国に刃を向けようと準備を始める。サヴォイア公はアンリ4世に向けて貴族達が叛乱を起こすのと引き換えに三女をビロン公シャルル・ド・ゴントーに娶せることを提案、またその叛乱の中でビロン公シャルル・ド・ゴントーはブルゴーニュとフランシュ=コンテに君臨することになっていた。しかし陰謀はその問題を調査していたラファンによって暴かれる。ビロン公シャルル・ド・ゴントーは一切を否認しようとするも、彼の残していた書付がそれを台無しにする。アンリ4世はリヨンで一度彼を許し、その後も何度も許そうとしたのだが、その度に新しい罪状の証拠と彼の懺悔が繰り返され、無駄になる。その為、シャルル・ド・ゴントーは1602年6月13~14日にかけての夜フォンテーヌブローで逮捕される。7月13日にはしっかり護衛されたラファンがパリに到着、14日にはビロン公シャルル・ド・ゴントーが告発者の前に引き立てられる。17日には大逆罪の審理が高等法院の判事達の手で行われ、27日には審理への参加を拒否していた廷臣たちが欠席する中でビロン公自身が出廷。29日にビロン公シャルル・ド・ゴントーの大逆罪に対して死刑が言い渡され、1602年7月31日に収監されていたバスチーユ内で斬首。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

織田信長


Category: 日本
織田信長 能力データ
魅力 8 / 統率力 9 / 戦闘力 7 / 政治力 10 / 知力 10

織田信長は天文3年(1534年)、尾張国の戦国大名である織田信秀の嫡男として那古野城で生誕。幼名は吉法師。2歳にして那古野城主となるが幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称される。一方で日本へ伝わった種子島銃に関心を持ち、身分にこだわらず民と同じように町の若者とも戯れて過ごす。まだ世子であった頃、主筋の支配する清洲城下に数騎で火を放つ等、父信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せる。又、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)古渡城にて元服し、上総介信長と称する。
父信秀と敵対していた美濃国の戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘濃姫と政略結婚。翌年に信長は正徳寺で道三と会見し、近江の国友村に火縄銃500丁を注文。父信秀が没し家督を継ぐが、信長の教育係であった平手政秀が自害。当時、尾張下四郡を支配した守護代であった織田信友は信秀の死後に信長が跡を継ぐと、信長の弟信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対、信長は叔父の守山城主信光と協力して信友を殺害。こうして織田信長は那古野城から清洲城へ本拠を移して尾張国の守護所を手中に収める。
弘治2年(1556年)、義父斎藤道三が子の義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援の為、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、こうした中で織田信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)、林通具、柴田勝家らは信長を廃して聡明で知られた弟信勝(信行)を擁立。信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し両派は対立、道三の死去を好機と見た信勝派は同年に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母土田御前の仲介により、信勝、勝家らを赦免する。更に織田信長は、織田一門の宗家であった尾張上四郡の守護代織田信賢を破り(浮野の戦い)これを追放。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立、織田信長は尾張の国主となった。

尾張国統一を果たした永禄3年(1560年)、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2~4万人と号する大軍であったが、織田軍はこれに対し総兵力5,000。今川軍は三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていく。織田信長は静寂を保っていたが、幸若舞「敦盛」を舞った後、昆布と勝ち栗を前に立ったまま湯漬け(出陣前に米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べて出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却(桶狭間の戦い)。桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退。これを機に信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結び(清洲同盟)、この同盟は織田信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持される。

斎藤道三亡き後、桶狭間の戦いと前後して織田斎藤両者の攻防は一進一退の様相を呈していたが、斎藤義龍が急死して嫡男龍興が後を継ぐと信長は美濃に出兵して勝利(森部の戦い)。永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化。その際、信長は妹お市を輿入れさせる一方で、滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出、神戸具盛など当地の諸氏とも戦う。やがて斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称している。
同年11月には僧沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を使用し始め、本格的に天下統一を目指すようになる。
中央ではかねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍足利義輝を暗殺、第14代将軍として義輝の従弟義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。久秀らは更に義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀るが、義昭は奈良から脱出し越前国の朝倉義景のもとに身を寄せる。しかし義景が三好氏追討の動きを見せなかった為、美濃国の織田信長へ接近を図って信長は義昭の三好氏追討要請を応諾。
永禄11年(1568年)、織田信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し上洛を開始。これに対して抵抗した南近江の六角義賢、義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城(観音寺城の戦い)。織田信長が上洛すると、三好義継、松永久秀らは信長の実力を悟って臣従、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡し、唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏。
足利義昭を第15代将軍に擁立した織田信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国するが、織田信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃(六条合戦)。しかし、織田信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せ、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦もあって三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退。更に織田信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求。
同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず北伊勢の神戸具盛と講和。更に北畠具教の次男長野具藤を内応により追放し、滝川一益の調略によって具教の実弟木造具政が信長側に転じると信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末和睦する。後に北畠具教は幽閉され、信雄により殺害される。こうして北伊勢攻略は完了。

元亀元年(1570年)、織田信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐する為、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正、明智光秀、木下秀吉らの働きもあって京に逃れる(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。同年6月、織田信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利(姉川の戦い)。8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣森可成と信長の実弟信治を喪う。9月、織田信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟信興を自害に追い込む。11月、織田信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和。更に足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。窮地を脱する。

元亀2年(1571年)、織田信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにする(比叡山焼き討ち)。一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると徳川領への侵攻を開始。信長の同盟相手であるこの徳川領への侵攻は事前通告無しで行われた。武田軍は遠江国から三河国に侵攻、野田城を攻略(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が織田信長に対して挙兵した為、信長は岐阜から京都に向かって進軍。上京を焼打ちし、正親町天皇からの勅命が出されて義昭と信長は和睦。4月には武田信玄が病死、武田軍は甲斐国へ帰国する。武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もるがこれを破り追放し、室町幕府の勢力は京都から消滅。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させる。
そして織田信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害。長政の母小野殿の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明)。尚、長政に嫁いでいた妹お市らは落城前に落ち延びて織田信長が引き取った。同月、織田信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて伊勢長島に行軍。滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とすが、撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受けて林通政が討死。

織田信長は上洛して従三位参議に叙任されると、数万人の大軍と織田信雄、滝川一益、九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにする。一揆軍も抵抗は激しかったが兵糧不足に陥り、長島城の門徒は降伏。船で大坂方面に退去しようとしたが、織田信長は一斉射撃を浴びせ掛ける。織田信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し焼き討ちで全滅させて長島を占領。翌天正3年(1575年)、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出軍(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出てその後石山本願寺と一時的な和睦が成立。
織田信長包囲網の打破後の天正3年(1575年)、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せる。これに対して信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣、更に徳川軍8,000人と合流。3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃を行わせるなどし、武田軍に圧勝。
この頃、前年に織田信長から越前国を任されていた守護代を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたために一揆の内部分裂が進行。これを好機と見た織田信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍。下間頼照や朝倉景健ら12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐される。これにより越前国は再び織田領となり、織田信長は越前八郡を柴田勝家に与えた。

天正3年(1575年)、織田信長は権大納言に叙任される。又、更に右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任。以後、織田信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた。又、織田信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。織田信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。
天正4年(1576年)、織田信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻す。更に石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。信長は4月、明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣するが伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死。織田信長は若江城に入り動員令を出して集めた僅か3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入る。信長自身も銃撃され負傷する激戦となるが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破(天王寺砦の戦い)。
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにする。ところが石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれる(第一次木津川口の戦い)。この頃、越後守護で関東管領の上杉謙信と信長との関係は悪化し、謙信は石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにして、謙信を盟主、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託。天正5年(1577年)、織田信長は雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあった為、雑賀衆の頭領雑賀孫市らを降伏させ、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立つが、上杉謙信が急死。この好機を活かし織田軍は斎藤利治を総大将に越中国に侵攻(月岡野の戦い)。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せ、またも信長包囲網は崩壊する。
天正期に入ると織田信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせる。上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益、織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備。
更に織田信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、更には岩屋城を落として淡路国を攻略。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となる(第二次天正伊賀の乱)。そして2月には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーション(京都御馬揃え)を行い、正親町天皇を招待している。
天正9年(1581年)織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置き高天神城を奪回、武田氏を追い詰める。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の雑賀孫市が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退。天正10年(1582年)武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。織田信長は大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始。この連合軍は10万人余に上り、武田軍諸城は先を争うように降伏、敗北する。信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻、武田側の城を次々に占領していき信長が武田征伐に出陣した3月には武田領国の本拠である甲府を占領、甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡する。この結果、駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に与え旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付け、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保つ。

天正10年(1582年)、織田信長は四国の長宗我部元親攻略に三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。5月、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は家康を手厚くもてなすが、備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じる。
5月29日、織田信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍、6月2日に本能寺を襲撃。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことがうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。享年49(満48歳没)。

織田信長は大正6年(1917年)に正一位を追贈される。戦後になると信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まる。又、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動、自ら手紙に「第六天魔王」と記したという話から、無神論者、破壊者といったイメージが生まれ、軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘されている。こうしたことから、織田信長が更に存命すれば世界史的にも多大な影響があったやもしれない。後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下であったことからその影響は計り知れず、日本史上極めて重要な人物である。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

雑賀孫市


Category: 日本
雑賀孫市 能力データ
魅力 7 / 統率力 9 / 戦闘力 9 / 政治力 3 / 知力 5

雑賀孫市は雑賀衆の棟梁や有力者が代々継承する名前で、鈴木孫市とも言う。
雑賀衆は五つの地域が地縁により結びついている一揆集団であり、非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装、極めて高い軍事力を持つ傭兵集団として活躍。海運や貿易も営んでいた。

1570年(元亀元年)に織田信長と三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、雑賀孫市らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍につく。一方、足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し織田信長軍につく。その後大規模な銃撃戦・攻城戦が繰り広げられ雑賀衆同士が戦うが、石山本願寺の参戦により雑賀衆は一致して石山本願寺につき、織田信長軍と戦う。そして数々鉄砲を有効に活用した織田軍が雑賀衆の鉄砲の技術と量に苦戦、一度は信長自身も負傷する大敗を喫した(石山合戦)。
信長は本願寺を倒す為にまず雑賀衆を抑えることを考え、信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)、雑賀衆に服属を誓わせた。しかしこの戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させた筈の雑賀衆も直ぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担。1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森に顕如を迎え入れ、畠山政尚を奉じて信長と争う姿勢を示す。しかしこれ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立、雑賀衆の内部は分裂して親織田派の雑賀孫市が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると雑賀孫市は羽柴秀吉のもとに逃亡、土橋派が主導権を握る。
以後は専ら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かす。そして家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくると(千石堀城の戦い、第二次紀州征伐)焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したが敵わず壊滅した。

その後、関ヶ原の戦いでは鳥居元忠を討ち取るなどの軍功を挙げ、浪人を経て水戸藩に仕官。鈴木氏の定紋が八咫烏である為、雑賀孫市は自身の火縄銃に「ヤタガラス」と命名している。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

ダレイオス1世


Category: イラク・イラン
ダレイオス1世 能力データ
魅力 8 / 統率力 5 / 戦闘力 4 / 政治力 9 / 知力 8

ダレイオス1世(ダレイオス大王)はアケメネス朝ペルシア第3代の王で、その名は「ワウ(よきもの)を保持する者」という意味。ダレイオス1世は全土を約20の行政区(サトラピー)に分割し、それぞれに総督(サトラップ)を配置。その上で各地を結ぶ交通網を整備し、総督の監視や情報伝達の為に「王の目」「王の耳」と称される監察官を派遣。このように中央集権体制を整備し、エーゲ海からインダス川におよぶ最大版図を統治したアケメネス朝全盛期の王である。
彼の時代に新都ペルセポリスが造営されるが、政治的中心はスーサであり続けた。交通網の整備は当時としては驚異的な速度で通信や移動を行うことを可能とし、とりわけスーサとサルデスを結ぶ「王の道」は有名。中央集権的な統治体制を整備する一方で帝国内の諸民族には寛容な政策をとり、交易で活躍するアラム人やフェニキア人の活動を保護。上質な金貨・銀貨を鋳造して帝国各地への流通を図るが、その成果は限定的であった。

スキタイ人征伐の為、南ロシア平原に侵攻するもスキタイの焦土作戦に苦しめられ撤退。又、イオニア植民市の反乱を機として、ギリシアとの間で約50年に及ぶペルシア戦争を開始させる。しかし戦争の途中でダレイオス1世は死去、戦いは息子のクセルクセス1世に引き継がれた。
アケメネス朝は、アケメネスを祖としてキュロス2世(キュロス大王)の時にリュディアや新バビロニアを滅ぼし、オリエントを統一して大帝国となった。ダレイオス1世は内乱の後に推戴されて帝位についたとされるが、この事件はダレイオス1世によるキュロス2世の王朝簒奪の見方が強い。

テーマ : 歴史小説    ジャンル : 小説・文学

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